続倉敷珈琲物語 「百年の時を超えて」

鄭永慶先生のお墓探しの実話をエッセーとしてまとめた「百年の時を超えて」

ご覧ください...

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百年の時を超えて


「えーと、その墓地なら、たしかデニーウエイを・・・そう、この道です。これを東にこう真っ直ぐ行った、大体ここらあたりにあるはずですよ・・・」


そう言いながらフロントマンが指差したのは、広げた観光客向けの地図の端から、さらに二十センチ程離れたカウンターの上だった。


二〇〇〇年八月、シアトルダウンタウン。私はある人物を捜し、やっとここまで辿り着いていた。



今から遡ること四年前の一九九八年、私はホームページで『倉敷珈琲物語』という旅行記の連載を始めた。


環境ビジネスのコンサルタントをしている私にとって、物語など全く未知の世界であったが、環境ビジネスに携わりながら、カフェレストランも経営しているクライアント社長の熱い思いに共感し、手探りで始めた執筆活動であった。


「少しでも多くの人に、珈琲の歴史や文化の素晴らしさを伝えたい。」そんな社長に採用された私の提案は次のようなものだった。


「珈琲が初めて発見された地エチオピアから出発して社長のカフェのある倉敷まで、どのようにして珈琲が伝わってきたのか、珈琲ロードとも呼べるその道を探しながら歴史と文化を味わう旅行記を書くというのはどうでしょうか?」



残念ながら実際に壮大な世界旅行に挑戦する予算も時間もなかった私は、インターネットや文献など、あらゆる手法を駆使して情報を集め、主人公のタカシとして、まさに実際に旅を続けながら連載しているようなバーチャルトリップ物語として連載を開始したのだった。


遠くアフリカ大陸のエチオピアから出発し、紅海を超えてイエメンへ、そしてアラビア半島を北上した後はトルコ経由でベネチアへと歴史の旅は続いた。


独特の文化を育みながらヨーロッパ各国へと広がった珈琲は、オランダ人によって鎖国時代の長崎出島に伝わった。


日本で初めて珈琲を飲んだのは誰なのか。


日本最初の喫茶店とは。


どうやって倉敷まで伝わってきたのか。


数々の歴史書を紐解きながら三十ヶ月に渡った珈琲ロードの旅は、昭和初期の倉敷で多くの人に愛された、今は無き喫茶店に辿り着いた所で終焉を迎えた...




いや、迎えたはずであった。




一心不乱に珈琲の歴史を辿った道のりだった。


そうした道のりの中で出会ったある人物の生き様が心に引っかかり、その思いが日に日に増幅していった。


その人物の名は『鄭永慶(ていえいけい)』




日本で最初の本格的な喫茶店を開いた人である。

人並みはずれた才能と野心を備えた人物であった。

当時、上流階級だけに開かれた社交場の鹿鳴館に対抗し、庶民に開かれた「社交サロン」として、また「知識の共通の広場」として開店した『可否茶館』という名の喫茶店

留学先のアメリカで垣間見た、本物の西洋文化を伝えるために開いた店であった。

しかし、時代の方がついてこなかった。

少し早すぎたのか、店は傾き、最悪の事態を迎えていた。




とうとう偽名を使いシアトルへ密航することとなった。

数ヶ月たったある日、安着の知らせが届く。

そして、病気がちとなりながらも皿洗いをやっていると書かれた次の便りが最後となった。

一年後届いたのは、永慶の死の便りだった。



明治二十八年(一八九五年) 永慶三十七歳 永眠



駆け抜けた短い三十七年の人生。


単なる営利目的だけでなく、文化・教養の醸成の場として夢見た日本最初の喫茶店

こころざし半ばで苦渋の選択を余儀なくされ、一人異国の地でその生涯を閉じた鄭永慶。



さぞかし口惜しかっただろう。

さぞかし辛かっただろう。

そして、寂しかっただろう。


生涯を閉じたシアトルの地でどのように葬られ、どこに永眠しているのか全く不明であった。

当時の鄭永慶に思いを馳せ、私は珈琲物語の最後を、お墓を探し出し、感謝の意を捧げることで締めくくりたいと考えるようになっていた。

今、誰もが、あたりまえのように珈琲を楽しめる日本になったことを報告し、百年の時を超えて大きな影響を与えた鄭永慶に対し、『ありがとうございました』と手を合わせたい念にかられたのだった。


てがかりは限られていた。




明治二十八年(一八九五年)七月十七日三十七歳。

シアトルにて永眠。パスポートには偽名の西村鶴吉。



それだけだった。


まず、亡き妻の実家に預けられたという子息の情報を探して岡山に出かけたが、探し出せない。

次に最も鄭永慶に詳しいと思われる『日本最初の喫茶店』を著わした作者に問い合わせを入れてみた。



しかし、応答は無かった。



日本での情報を諦めた私は、シアトル領事館へメールで問い合わせを行った。

すぐに届いた返信には、探している情報が領事館には無いことと、地元のコミュニティー紙に掲載してはどうかというアドバイスが書かれていた。

迅速な対応に感謝すると共にコミュニティー紙への投稿に関しての詳細を問い合わせた。

次に届いたメールには「当地の日系紙『北米報知』に横田さんという方がいて、本件に対し興味を持っていらっしゃいます。ぜひ連絡を。」とあった。



今まで掲載してきた物語を読んでいただきたいこと。

その中でめぐり合った鄭永慶のお墓をなんとしてでも探し出したいことをメールに託した。




そんな私の思いは、横田さんからの返信で報われた。

「はじめまして北米報知の横田と申します。本紙で先ず記事として紹介させていただきます。広告に関しては後日打ち合わせいたしましょう。」


「記事にしてもらえるなんて・・・」



信じられない展開に驚きながらも、既に気持ちはシアトル。横田さんに最初の滞在先だけをメールで連絡し、私は空港へと向かった。



シアトルは以前仕事で二度ほど来た事があるお気に入りの街だった。自然に溢れ、美しく落ち着いた大人の街だ。

わかりやすいようにと、最初のホテルはダウンタウンの歴史あるホテル「クレアモント」を選んだ。


ワシントン州名産の赤いリンゴが盛り付けられたフロントでチェックインすると、既に横田さんからの「電話ください」のメッセージが届いていた。




部屋に入るなりすぐ電話。

ありがたいことにこれからすぐホテルまで来て頂ける事となった。





待つこと小一時間、チャイムが鳴った。


歴史を感じさせる黒い大きな木製のドアを開けると、そこには二人の男性の姿。窓際に椅子を二脚用意し、私はベッドの端に腰掛けた。

「今、スターバックスをはじめとしてシアトル発信の珈琲がずいぶん日本で脚光を浴びていますよね。そんな今、日本での珈琲の歴史上重要な人物が実はここシアトルと深い関わりがあったというのは、なかなか面白いと感じましてね。記事として扱わせてもらおうということになったんですよ。構わないですよね?」


本当?嘘みたい。もちろん大歓迎に決まっている。


「実は、もうできてまして。今週号が明後日配布されます。こんな感じにしたんですけど。」
そういって、刷り上ったばかりの新聞を渡された。


そこには、驚いたことに、見開き一面に大きく取り上げられた、次のようなお墓探しの記事が載っていた。





『北米報知 平成十二年八月二十六日 第五十五巻

「日本で最初に本格的喫茶店を開業した人物」として知られる鄭永慶(ていえいけい)氏の墓が、シアトルにあるとみられ、その足跡を確認するため、同氏に関する情報が求められている。

鄭氏は、安政六年(一八五九年)、長崎に生まれ、父親が外務省の役人だったこともあり、北京では支那語を学び、京都では仏語学校に通い、明治七年(一八七四年)には、当時十六歳ながらも、米国エール大に留学した。

しかし、健康を害したため、明治十二年に中途退学して帰国。翌年、岡山師範学校に勤務し、明治十五年には、惜しまれながら退職、大蔵省に勤めることになる。

翌年には結婚し、明治十八年には長男も誕生するが、その翌年、妻が病死。明治二十年には、「学位がなければ、大蔵省で重用されない」と、同省を辞職する。

鄭氏が喫茶店を開店したのは、同省辞職翌年の明治二十一年四月で、東京に二階建て洋館「可否茶館」を開設。同月の読売新聞でも、同館がゲームや書籍類まで揃え、庶民が気軽にくつろげるアメリカタイプのコーヒーハウスとして注目されたことが、報じられている。

しかし、時代を先取りした喫茶店とはいえ、経営が成り立つほどは繁盛せず、数年後、借金を抱えて倒産。

この間、妻は病死し、再婚相手も肺病で死去。鄭氏は、明治二十五年、三十四歳の時、渡米を図る。だが三年後、病に倒れ、シアトルで三十七年の短い生涯を閉じた、と見られている。

日本人ジャーナリストの野口孝志=広島県在住=は、現在、ウェブ上で『倉敷珈琲物語』というコーヒーの歴史と文化に関する物語を連載中で、「鄭氏の功績を称えることで、物語を終わらせたい」という意向を持っており、今月から来月にかけ、シアトルでリサーチし、「鄭氏の墓参りも行いたい」という。

野口氏によれば、鄭氏は、「西村鶴吉」と名前を変え、米国へ密航したとも思われている。

野口氏は「鄭氏の墓や、シアトルでの鄭氏の暮らし振りなどに、心当たりの方がいれば、ぜひとも、お話を伺いたい」と協力を求めている。』





「ありがとうございます。こんなに大きく取り上げていただいて。鄭永慶さんのことも、私の思いも、とてもわかり易くまとまっています。本当に何と言って御礼を言えば良いか・・・」


「いえいえ、それより百年以上も前のことですので、どなたか申し出てくだされば良いのですが。とりあえず一週間ほど様子を見ましょう。ご予定は?」


八日後のフライト予定だった私は、一週間後に連絡させていただく約束を交わし、お二人に別れを告げた。



シアトル郊外の町ケントやチャイナタウンなど、知り合いに紹介してもらった日系人宅を訪ねながら、瞬く間に一週間は過ぎていった。追い求めている情報にかすりもしない。

そして、期待できるのは、あの新聞記事だけとなってしまった。



八月三十日、帰国前日のこの日、私はシアトルから約一時間ほど北に上がった「アナコルテス」という小さな港町にいた。

サンファン諸島やヴィクトリア方面へのフェリーの起点となる港町である。

楽しい壁画で彩られたおしゃれなショップやプチホテルが、一つしかない大通りを挟んで数多く並ぶ、安全で美しい町だ。



素晴らしく晴れ上がった最高の朝だった。九時になるのを待ちわび、ガソリンスタンドの公衆電話から横田さんの携帯電話にかけてみた。


「残念ながら今のところ何も入ってないんですよ。

いやー、そんな話があったのかって、反響はあったんですけどね。

お墓のこととなるとさっぱりです。あきらめず、今日一日待ってみましょう。

私なりにいろいろと調べたこともありますから、夕方連絡を取り合いましょう。

今夜はダウンタウンですか?」


 ダウンタウン北はずれのモーテルに十五時ごろチェックインし、もう一度電話を入れた。


「残念ですが、やはり情報は入ってないんです。

でも、日系のお年寄りからお話を伺ったり、年代から見ておそらくここしかないという古い墓地の目処をつけていたんですよ。

本当は一緒に探しに行かなくちゃあいけないんですけど、今日はどうしても抜けられなくて。

ほんと申し訳ない。住所を言いますから、何とか一人で行けますか?」




もちろんだ。ホテルのメモに住所を走り書きした。


『ノースキャピタル東十五番通りレイクヴュー墓地』



たったこれだけの情報で探しだせるだろうか?悩んでいる暇は無かった。

夕暮れが迫っている。一階のフロントにこのメモを見せて、地図を書いてもらうことにした。


「レイクヴュー墓地へ行きたいんですが・・・」

地図から二十センチ程外れたカウンター上を指さした彼は、困惑した私の顔を覗き込んでこう言った。


「その辺まで行って、また誰かに聞けばいいよ。」


グッドラックの声を背中に聞きながらホテルを出、駐車場へと急いだ。ダウンタウンの東へハイウエー以外で足を伸ばすのは初めてだった。

日が暮れかけている。急がなくては。



「よーし、だんだん近づいてくるのがわかるぞ。」

でも「もう少しだ」と思うと、また違った番地に出くわしてしまう。もう何度も同じところを行ったり来たり。



「すいません。レイクヴュー墓地へ行きたいんですが、道を教えていただけませんか?」
楽しそうに歩道で立ち話をしていた女性二人組みに、声をかけてみた。

住所の書いてある例のメモ紙を取り出し、向かって左のちょっと小太りのやさしそうなお母さんに手渡した。


「ああ、この住所なら、この道であっていますよ。もう少し、このまま、まっすぐ走れば、見えてきます。絶対見逃したりしませんよ!」


よかった、だいたいの方向はあっていたのだ。日暮れまでにもう時間が無い。そそくさと車に乗り込み、傾きかけた夕陽に向かってアクセルを踏み込んだ。

「まだかな?ひょっとして通り過ぎたのか・・・」

不安になってきた私は、念のため、もう一度尋ねてみる事にした。美しい緑に両側を蔽われたその道は、散歩するには格好の場所らしく、小犬を連れた老夫婦が木漏れ日の中、楽しそうに歩いていた。


「すいません。レイクヴュー墓地へ行きたいんですけど。」もう、かなり近いはずと思い、今度は、メモ紙無しで聞いてみた。白髪のやさしそうなおじいさんは、私の言葉を聞くと、大げさに目を丸くして横のおばあさんの顔を覗き込んだ。


「なんか、変な事言ったのかな?」不安がよぎる。
向き直ったおじいさんも、おばあさんも、満面の笑みを浮かべて、声をそろえて私に言った。


「ここですよ!」

「ほら、あなたの後ろ。そこがぜんぶ墓地ですよ!

 事務所はほら、あそこにフェンスが見えるでしょ?  あ・そ・こ!」


やっとついた。既に、午後4時をかなり回っていた。



「こんにちは!どなたかいらっしゃいませんか?」



きれいな事務所だった。日本の墓地のイメージとはまったく違う。いわゆるオフィスだった。

「いらっしゃい。ブルースリーでしょ?」

ブルースリー・・・? ある日本人のお墓を探しにきたんですけど。」


「えっ?ブルースリーじゃない?すいません。

ほとんどの東洋の方はブルースリーの墓参りにお見えになるもので。

大変失礼しました。アシスタントマネージャーの、ジェームスです。」



大柄でやさしそうな笑顔のジェームスさんが、名刺を渡しながら言い訳をした。




「鄭永慶という人のお墓を探しています。亡くなったのは一八九五年七月です。でも、西村鶴吉という名前かもしれません」そう言って、メモを渡した。




『Tei Eikei or Turukichi Nishimura 1895 July 17』



メモを見ると、すぐにジェームズさんはこう言った。


「古いですね。かなり古い時代ですので、昔の資料を持ってきます。少々お待ちください。」
木立の影が事務所の中まで伸びてきた。









まだだろうか・・・



やっと姿をあらわしてくれたジェームズさんの手には、大きなアルバムのような資料が二冊。

「これが一番古い資料です。そして、手書きで複写した少し新しい資料と・・・」
カウンターの上に広げ探してくれている。



「ありましたよ。ここです。ほらっ!」



広げたページの真中あたり。古い方の資料にもはっきりとNishimura T の文字が。

あった!年代も一八九五年七月。間違いない。


とうとう見つけた。


「お墓はありますか?」


「お墓の位置を示す一番古い資料を探しました。ほらっ、ここに名前が確認できますね。」


そう言って見せてくれた資料はぼろぼろで、やっと名前が確認できるほどのものだった。

たしかに当時、その資料に記されているX3の7の区画に、墓石があったことの証だという。

「この年代のお墓は平らなプレート状の墓石です。なかには残っていないものもありますから何ともいえませんが、古いお墓は大体このあたりにあるんです。まあ、行ってみましょう。」

一見して、如何に広いかがうかがえる墓地の地図を広げ、中央あたりに黄色いマーカーで印をつけながら説明してくれた。

いよいよだ!見つかる可能性は高い。


期待に胸を膨らませ、ジェームズさんの車の後について、私は車を墓地の敷地内へと進めた。

こんもりと茂ったアプローチの植え込みの中に、レイクヴュー墓地の看板が見える。

ゲートを抜けると美しく荘厳な光景が目に入ってきた。




晴れ渡った青い空。きれいに刈り込まれた緑の芝生。


遠く眼下に広がる鏡のような湖。


まるで見晴らしの良い丘陵地につくられたゴルフコースの中に、オブジェを並べたような印象だった。


約百メートルほど走っただろうか、ジェームズさんの車が止まり、道の左手に入っていく。


私もすぐ後ろに車を止め、後を追った。



もう秋の装いを始めたシアトルの風に、枯葉が舞っている。どこからか小鳥のさえずりも。





「これじゃーないのかな? ありましたよ!」   ジェームズさんの声。





あったのか?





いそいで彼の示すお墓へと向かう。


手入れの行き届いた芝生の中、ひっそりと少し沈んでいるようにそれは見えた。




自分でも不思議だったが、焦る気持ちとは裏腹に足取りはゆっくりと、ゆっくりと...


夕日に向かって回り込むようにゆっくりと・・・






これか・・・?






美しい緑の芝生の中に、きちんとはめ込まれたようにそれはあった。


プレート状の墓石は、美しく輝き、刻まれた名前と年代がはっきりと読み取れる。





『T.NISHIMURA 1860-1895』








やっと会えましたね。






はじめましてタカシです。

夕日が演出する長い木陰の陰影が美しい。

こんな心地良い場所で、こんなにきれいにしてもらってるなんて、安心しましたよ。

風に舞う枯葉をどけようかと思いましたが、やめておきます。だって、仲良く、暖かく、包み込まれているみたいですから。そうなんでしょう?




永慶先生!先生の思い描いた珈琲の文化はたしかに日本に根付きましたよ。

先生の理想とは違っているかもしれません。でも誰もが気軽に、おいしい珈琲を楽しめる、そんな日本になりましたよ。




ありがとうございました。




こころざし半ばにして日本を離れなければならなかった口惜しさは、いかほどだったことでしょう?


日本を代表する頭脳と野心を持ちながら、運命のいたずらに翻弄されたのですね。


珈琲の歴史と文化を尋ねて旅を続けてきましたが先生の存在をどうしても日本の珈琲好きの人たちに伝えたくて、そして直接先生に会ってお礼が言いたくて、ここまで来てしまいました。


今、久しぶりに心が震えているのがわかります。


熱いものがこみ上げて来ます。


来てよかった!


大きなエネルギーをもらえたような気がします。




ありがとうございました。


また、来ます。必ず来ます。それまでゆっくりと眠っていてください。





やすらかに。




気付くと、すっかり日は沈んでいて、既に薄暗くなっていた。


どれくらいお墓の前にたたずんでいただろう?かつて経験したことの無い、不思議な居心地の良さの中、時間を忘れた。


うまく伝えられないけれど、不思議な暖かさに包まれた、そんな感じだった。




バーチャルな旅から出発した旅は、現実の旅へと移り変わり、年代を超え大陸を越えて新たな史実の発見へと展開し、熱い思いは成就した。



こうして私の珈琲ロードの旅は終わりを告げた。





仕事やバカンスではない、しかしはっきりとした目的を持って出かけた初めての旅であった。


偶然出逢った一人の男の生き様に心惹かれ、多くの人に伝えたい、どうしても直接会ってお礼が言いたい、日に日に募る熱い思いが遠くシアトルへと突き動かした旅であった。


そして、それは情熱を持って臨めば道は開かれるということを体感できた旅ともなった。


信念に裏打ちされた情熱を持ってすれば、わかってくれる人はいる。


助けてくれる人もいる。


問題は、如何に念じるか、如何に行動に移すかなのだと教えられた旅であった。




この旅をきっかけに、本来なら決して出会うことのない人々と不思議な縁で結ばれた。そして今、同じ目標に向かい、日米協同で仕事を始めている。




「鄭永慶さんが巡り会わせてくれたに違いない。」




廻りの多くの人にそう言われる。




お墓の発見から約二年経った平成十四年八月。  一通のメールが届いた。











「はじめまして。私は鄭永慶の孫(長男の長男)でございます・・・」



 また、新たな旅の予感がした。