続倉敷珈琲物 第11話「世界最初のコーヒーハウスはどこの国?」
「ムハンマドはたしか5年ほど前、コーヒーの研究家のガイドをしたんだよネ?」
「そうですよ。とてもコーヒーに関して詳しく調べていました。私も興味があったので、いろいろと教えてもらいました。日本の事までは良く分かりませんが、イエメンからどのようにヨーロッパに伝わったのかなら、お話しすることはできますよ。」
「日本へはきっとヨーロッパの国から入ってきたと思ってるんだけど、とりあえずヨーロッパまでどのようにして伝わったのか、教えてくれる...?」
「前にも少しお話ししましたが、ヨーロッパへの伝播の窓口となったのはトルコです。トルコは今でも東洋と西洋の交差点で、非常に魅力的な所です。そのトルコまでのコーヒーの辿った道をお話しすることにしましょう。5年前、コーヒー研究家は次のように私に話してくれました......」
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「ちょっと詳しすぎるかも知れんが、コーヒーの歴史にとっては、大切な時期なのでよーく聞いといてくれヨ。
あれは1545年頃、アデンのイスラム法律学者であった、シェーク・ゲマレディン・アブ・ムハンマド・ベンサイドがアビシニア(現在のエチオピア)を旅した時じゃった。
アデンへ帰る途中、病に倒れた彼はアビシニアで飲まれていたコーヒーの事を思い出し、少しでも病気に効けばと、それを取り寄せたのじゃ。
おかげで病気は直り、しかもコーヒーが眠けを払う効果があることまでもわかったんだな。
彼は、イスラムの修行僧たちが意識を集中して夜の礼拝や行に励むことができるとして、コーヒーを飲むことを認可したのじゃ。
もちろんそれ以前にも、コーヒーに関してアデンに何らかの情報は伝わっていたと考えられるが、科学や宗教の分野で著名な導師がお墨付を与えたことで、イエメン全土のみならずイスラム圏へ急速に普及していくきっかけとなったのだなこれが。
こうしてコーヒーは1500年頃までに、有名なメッカやメディナまで広がったのじゃが、最初宗教的な目的に使用されたコーヒーも次第にメッカの住民はコーヒーを好むようになっていった...。
まあ、いつでもどこでもおいしいものは、飲みたいっていうのが人間なんじゃな...。
当時1500年頃メッカはカイロのマムルーク朝(1250〜1517)の支配下にあったため、コーヒーも1510年頃にはエジプトのカイロまで伝わったとされておる。
カイロの特定地域にかたまって住んでいたイエメンの修行僧たちが、夜の礼拝の際に飲用していたようじゃ。
コーヒーは大きな赤い土器に入れて保存され、礼拝の際に修道院長がその壷から小さな鉢でコーヒーを掬いとって、うやうやしく渡していく。そして修道僧に続いて礼拝に参加している一般の人々にも鉢が渡された。
こうして、コーヒーは宗教的儀式や祭礼を行う際に欠かせないものになっていったのじゃな。
カイロに伝わる元となったメッカで宗教とは関係なくコーヒーが飲まれるようになったように、次第にアデン、メディナ、カイロでも飲料として民衆の中に浸透していったことは想像できるじゃろう。
そしてコーヒーは世俗的な飲料として、史上初めて登場するカヴェ・カーネスと呼ばれたコーヒーハウスで公然と飲まれるようになったのじゃ。
これらの店には有閑階級の人々が集まり、コーヒーを飲みながら、チェスをしたり、その日の出来事を語り、歌い、踊り、音楽を楽しんだ。まさに今日のコーヒーハウスの原形ともいえるものだった訳である。
とはいっても、コーヒーハウスというよりコーヒー店といったほうが良いような店で、本格的なコーヒーハウス1号店は1554年コンスタンチノープルにできた店と言われておる。詳しくは後で述べることにするが...
ともかくこのように、コーヒーの歴史の中で初めて嗜好品として店でふるまう事例がメッカで始まった訳だが、もう一つ世界で初めての史実がここメッカで起こることとなった。
それが何かわかるかな?
それは、コーヒーに対する迫害じゃ。
カヴェ・カーネスでの民衆の振る舞いはイスラムの厳しい習慣とは相反することで、敬虔なイスラム教徒たちは大衆のコーヒー飲用に反対し始めていた。
1511年、当時のメッカを統治するようにエジプトのスルタンから任命されていたのは、「カイル・ベイ」という非常に厳格な戒律信奉者であった。(スルタンとはイスラム世界<スンニ派>における世俗社会の支配者のことで、絶対的な権限を持っていた)
このカイル・ベイという統治者は厳格な戒律信奉者であったがゆえに、嘆かわしいほど民衆の現状に関して無知であり、相当のカタブツであったようじゃ。
ある夜礼拝を終えて寺院から出て行くとき、コーヒーを飲んで徹夜の祈祷の準備をしている者達を目にした。
最初、彼等がワインを飲んでいると思い激怒したが、さらにコーヒーがいかに町中に氾濫しているかを知って非常に驚いた。彼はこのままでは、民衆が戒律で戒められている贅沢に向かうとして、コーヒーを禁止することを決意したのじゃ。
さっそく彼は裁判官、法律家、医師、聖職者、市民の代表を集め、コーヒーハウスのいきすぎに歯止めをかけることに関して意見を求めた。
法律家は現状を改める必要は認めたが、コーヒー自体に関しては人体及び精神にとって有害であるかどうかを調べる必要性を指摘し、医師の判断を求めることを提案した。
あたりまえの判断じゃな。
ところが、このために呼ばれた当時メッカで最も高名な医師の「ハキマニ兄弟」は、とんでもない事を考えとった。
コーヒーが薬の役をして、医師の仕事を減らしてしまうのではないかと不安を抱いていたのじゃ。
そして、コーヒーは健康に極めて悪いという見解を発表してしまった。まったくの自分本位の見解であったが、カイル・ベイの思惑通りに事は進み、コーヒーは世界で初めて正式に法律で禁止されることになってしまった。
コーヒーの販売を禁止する旨の布告が発せられ、全てのコーヒーハウスは閉鎖されてしまい、さらに、倉庫にあったコーヒーまでも焼き尽くすように命令は下された。
違反したものは厳しく罰せられ、ろばに乗せられて市中を引き回された。
本当に健康に悪いものであったなら、コーヒーの運命ももはやこれまでということになったのだろうが、やはり「良いものは良い」とするあたりまえの歴史が刻まれることになっておった。
カイロの医師達はコーヒーの飲用は何らイスラムの法に反するものではないという見解であり、支配者のスルタンも大のコーヒー好きであったため、カイル・ベイのばかげた宗教的熱意に反対し、布告を撤退してしまった。
こうして、初めてのコーヒー迫害もあっという間に撤回され、メッカにコーヒーが蘇ったというわけじゃ。
面白いもので、コーヒーの歴史を辿ると、どこであれコーヒーが導入されると必ず騒乱が起こり、迫害が繰り返されているのがわかる。
現在ではコーヒーは世界中で主要な飲みのもとなっているが、コーヒーは人々を思考させ、民衆が思考を始めると暴君あるいは思想や活動の自由を束縛するものにとって危険な存在になる。人々は新たな着想に酔い、自由と放埒を取り違えて騒乱を起こし、迫害や不寛容を招き寄せてしまったのだ。
さて、エジプトまで伝わったコーヒーは次にどこの国へと伝わったと思うかな?
その歴史は、単においしい飲み物が評判を呼んで伝えられたのとは少々異なっておった。
1517年、約300年も続いたエジプトのマムルーク朝が滅びるときがやってきたのじゃ。
当時勢力を拡大していたオスマントルコの第9代スルタン「セリム1世」にエジプトは征服されたのだ。
このときに、コーヒーはセリム1世によって、オスマン・トルコの首都コンスタンチノープル(現イスタンブール)へ持ち帰られることとなった。(コンスタンチノープルは、1463年オスマン・トルコによって滅ぼされた東ローマ帝国の都であった)
1517年にトルコに伝わったコーヒーは、なぜかすぐにはコンスタンチノープルの民衆に浸透せず、1530年に現シリアのダマスカス、1532年にはアレッポに伝えられた。
ダマスカスのコーヒーハウスは広く評判を取り、中でも「薔薇のカフェ(Cafe of Rose)」と「救いの門のカフェ(Cafe of the Gate of Salvation)」が名高かったと伝えられておる。
そして、コンスタンチノープルで民衆の間にコーヒー・ハウスが浸透するのは、スレイマン大帝時代の1554年の本格的なコーヒー・ハウスの出現を見てからということになっておる。
このときできたコーヒー・ハウスは非常に豪華な作りで、内装、家具にも気を遣い、雰囲気もよかったので、社交や自由な意見を交換する場所として格好のものとなったのじゃ。
この世界最初の本格的コーヒー・ハウスを開いたのは、ダマスカス出身のセムシとアレッポ出身のヘケムで、どちらもコンスタンチノープルのタクタカラと呼ばれる界隈に開業している。
このコーヒー・ハウスがいわゆるヨーロッパのコーヒー・ハウスの原形といわれるものであり、急激に増え続けたコーヒー・ハウスがここトルコからヨーロッパへ伝わるのに長くはかからなかった。
どうじゃな?このようにして、宗教的な飲み物であったコーヒーは、次第に民衆の大きな指示を得る様になり様々な文化を形成しながらここトルコを通じて東洋から西洋へ、イスラム圏からキリスト圏へと伝播されて行くようになったのじゃ。解ったかな?
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「解ったかな?」ムハンマドがおどけて繰り返した。
「メッカ、メジナのある現在のサウジアラビアは就業ビザ以外では入国できないし、エジプトも現在ではほとんどコーヒーを飲んでいないから、やはりトルコにとりあえず行って、そこから先はまたそこで考えるということでいいんじゃないですか?」
「う〜ん、とりあえずヨーロッパへ伝わる窓口にトルコがなったことは間違いないみたいだから、そうすることにするよ!」
いまひとつ主体性に欠けてはいたが、とりあえず次なる国が決定した。
次なる国は「トルコだ!」