続倉敷珈琲物 第33話「カフェーパウリスタ」
『時間がゆっくり流れる喫茶店』
時間毎にお勧めのなごみのスポットを紹介する、ごく最近のある雑誌の特集である。
そんな雑誌の、朝8時のお勧め場所に取り上げられているのが「カフェーパウリスタ」
二人して日本へやってきた、あのジョン・レノンとオノ・ヨーコが、滞在中の3日間通いつめた喫茶店、そこが「カフェーパウリスタ」
日本人が忘れかけている何かを、レノンとヨーコはそこに感じたのでしょうか...?
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銀座8丁目のビルの一階で現在のカフェーパウリスタは営業している。
このカフェーパウリスタが、現存する日本最古の珈琲専門店であることを、いったい何人のお客様が知っているのだろうか?
通りから少し奥まった入り口の重たいドアを開けると、まず最初に前方の天井からつるされた大きな旗が目にとびこんでくる.....
「あの国旗はどこの国のだっけ?」
とりあえず、パウリスタへ行ってみようと現在の東京までやってきた。
パウリスタの詳細をまだ知らなかった私は、まず不思議に思えた大きな旗のことをラッキーに聞いて見た...
「ブラジルの国旗です。
どうしてブラジルの国旗が飾ってあるのか...?
なぜ、コーヒーといえばブラジル...と日本で言われるようになったのか?
コーヒーに情熱を燃やし続けた一人の男の人生が全てを教えてくれますわ!」
「一人の男って?」
「名前は水野龍。その男の物語は1904(明治37年)までさかのぼります...」
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移民事業を行なっていた皇国植民合資会社社長の水野龍はある報告書を手にしていた。
『ブラジル・コーヒー耕地の事情、及各国植民の状況』
当時、在サンパウロの弁理公使杉村濬氏からの報告書であった。
この報告書を見た水野龍は、ブラジルにおけるコーヒー栽培事業が日本人に適した有利な事業であることに着目し、日本駐在ブラジル公使マノエル・カルロス・ゴンザルベス・ベレイラに移民を送りたいとの希望を申し出たのである。
可否茶館の常連でもあった時の通商局長、石井菊次郎もブラジル珈琲業の調査を勧めたこともあり、その年の12月南米へさっそく調査に向かったのであった。
その船中で水野龍は一人の青年と偶然出会う。
鈴木貞次郎と名乗ったその青年は、チリの硝石地帯に入植を希望していた。
しかし、船中で水野龍の熱く語る珈琲栽培の話に共鳴し、急遽目的地をブラジルに変更してしまった。
鈴木貞次郎はこうして記念すべき珈琲耕地への入植日本人第一号となったのであった。
水野龍はブラジル政府と交渉を繰り返し、日本人移民の受け入れ承諾に成功する。
そして、第一回の移民船「笠戸丸」の移民団長として1908年(明治41年)6月18日、781人の移民を無事サントス港に上陸させることに成功した。
ブラジルサンパウロ州政府は水野龍の功績に報いるために、「ゴムかコーヒーか」のどちらかを提供することを申し出た。
水野龍は日本に持ち帰ってもあまり手のかからないであろう珈琲を選んだ。
かくして、第一回のブラジルコーヒー豆が横浜へ到着したのは1910年(明治43年)であった。
ところが水野龍は全く欲のない人で、この豆の輸入税も用意がなく、当時横浜の食料品商、山田良介氏他数名と合資会社を作り、とりあえずこの珈琲豆を引き取ったのであった。
これが、カフェーパウリスタの前身である。
カフェーパウリスタは1913年(大正2年)株式会社となり、ブラジル政府と契約した。
ブラジル政府は、コーヒーを毎年1500俵、5年間に渡る無償供与を約束し、ブラジルコーヒーの普及を水野龍に委託したのである。
宣伝する代わりに無償なのだから別に負い目に感ずる必要などないのに、水野龍は元来商人気質など微塵もない人だったために、採算など度外視してひたすら多くの人にコーヒーの実物宣伝をすることに専念したのであった。
水野龍には、日本で珈琲を普及させることが異国ブラジルの珈琲農園で作業している日系人の労に報いる道であるとする信念があり、ひたすら両国共栄のために尽力したのであった。
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「なるほどネ〜、そんな歴史があったんだ...。でも、もし、珈琲じゃーなくてゴムを選んでたら、今みたいに日本で珈琲が普及してなかったかも知れないんだね...?」
「そういうこっちゃ!
しかし、何事でも最初に手がけた人は、ほんまに苦労してるいうことがようわかるやろ?
信念がなかったらでけへんいうこっちゃな〜...。」
「最初に水野龍さんが作った喫茶店がここなの...ラッキー?」
「いいや、残念ながら最初にできたパウリスタ1号店はもうないんや。関東大震災があったさかいな...
当時のパウリスタは今の銀座6丁目あたりで、3階建てで総面積約300坪の白亜の洋館やった。
1階と2階が喫茶店で3階が事務書、ロココ調のモダンな造りで、大理石のテーブルやカウンターがあり、壁には鏡が張られていてパリのカフェプロコプを模した斬新な喫茶店やった。
水野龍の目指したカフェーパウリスタの理念はただ珈琲を宣伝するだけ違て、人々の憩の場所を提供し、一杯の珈琲でその日の疲れを取り除いて、明日への活力を養ってもらうこと、そして、志を同じくする仲間が集まって共に文化を語り、新しい文化を作り出すことを目指してたんやろなあ〜...。
児島政二郎は次のように書いてます...
コーヒーが1杯5銭という安値だった。
その外、ドーナッツ、フレンチトーストというような食べ物もあり、どれも皆んな安かった。三田の学生は、放課後塾から芝公園を抜けて、日蔭町を通って毎日のように銀座へ出た。
パウリスタは、コーヒー1杯で1時間でも2時間でも粘っていても、いやな顔をしなかった。丁度時事新報社の真ン前だったから、徳田秋声や政宗白鳥なども、原稿を届けに来たついでに寄って行ったりした。
私達文学青年にとって、そういう大家の顔を見たり、対話のこぼれ話しを聞いたりすることが、無常の楽しみだった。
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カフェパウリスタにはこの第33話を書くために取材に訪れてから後訪問していない。
東京に行く際に、時間があれば行きたいのだが、銀座界隈になかなか縁がなくご無沙汰になっている。
当時の店内の描写なので、今とは違っているかもしれない点をご容赦ください。
当時のパウリスタの写真など、貴重な資料が現在も営業を続けられているパウリスタさんのホームページで確認できる。
日本の珈琲文化に多大な影響を与えた水野さんの功績を讃えるとともに、ここに感謝の気持ちを伝えたいと思います。