続倉敷珈琲物 第34話「カフェーパウリスタ-その2」
「プランタンのコーヒーが当時15銭だったでしょ?
カフェーパウリスタの一杯5銭というのは、まさに大衆が楽しめる値段だった訳だね?」
「そういうことなんやけど、この水野さんちゅ〜人はほんまに欲のない人でな、集会があると聞けばすぐに出かけて行き、試飲会を設けてはコーヒーの良さを知ってもらうように頑張りはったんや!」
「少しでも多くの人にコーヒーの味を知ってもらいたい一心で、無料コーヒーサービスを続けたんだね?」
「その上、宣伝をすること、普及をさせることをブラジル政府と約束してたから、採算など後回しで、とにかく日本中の人にコーヒーを知ってもらいたいと、あっという間に全国に支店を開設しはったんや!」
「どこに何店舗ぐらい店をだしたの?」
「正確にはわかれへんのやけど、約4〜5年の内に22店舗もの店を出したといわれてますねや。」
「場所はわからへんの? 岡山にも水野さんが進出したの?
岡山の最初の喫茶店はパウリスタだったのかな...?」
「わての記憶には岡山という文字は存在してへんで〜?
奥山偽八郎先生の<コーヒーの歴史>に、19店舗の場所が紹介されてまっさかい、見てみましょう...
1:本社喫店
2:伝馬町喫店
3:鍋町喫店
4:堀留喫店
5:神田喫店
6:早稲田喫店
7:日比谷喫店
8:浅草喫店
9:戎橋喫店
10:松島喫店
11:横須賀喫店
12:三ノ宮喫店
13:京都喫店
14:仙台喫店
15:北海道喫店
16:静岡喫店
17:九州喫店
18:名古屋喫店
19:上海喫店
「どや! すごいやろ!
開業してあっという間に北は北海道から南は九州、そしてなんと上海まで...
コーヒー研究家の伊藤博先生は著書<コーヒー博物史>の中で、次のようにパウリスタの残した業績を評価されてます。
それは、大きく2つの業績にまとめられます。
まず1つ目は、コーヒーを大衆でも楽しめる5銭という安い値段で提供し、コーヒーの消費の拡大に貢献した点。
そしてもう1つは、全国主要都市に支店を開設し、市場開拓の原動力になった点や。
パウリスタのこうした実績がなかったら、昭和初期に全国主要都市に数多くの喫茶店が開業することはなかったっちゅうわけやな!」
「それからどうなったの?」
「さあ〜これからという大正12年、ブラジルからの無償供与の期限が切れてしまいます。
さらに悪い事に、関東大震災で関東地区のお店は壊滅的な打撃を受けてしまいます。
大正12年〜13年にかけて、各店はそれぞれの経営責任者または各地方の協同経営者に譲渡され、直営から分立営業に変わり、ついにパウリスタの伝統と存続は過去のものとなってしまいました。
水野龍氏は震災の翌年大正13年、会社を辞職しブラジルのパラナ州に移住し農業に携わりました。
その後、資金調達のため再び帰国しますが、太平洋戦争勃発のため日本に10年もの長いあいだ滞在を余儀なくされ、昭和25年5月、やっとサンパウロに帰ることが許可されました。
やっと家族の待つサンパウロに帰って幸せに過ごせる境遇となったのに、翌年の昭和26年8月14日家族に見守られながら安らかに永眠しました。享年92歳でした。」
コーヒーに命を賭けた男でした。
私利私欲を微塵も見せず、ひたすらコーヒーの魅力の普及に尽くした男でした。
サンパウロとリオデジャネイロの間の高速道路には彼の名を冠した橋があり、生前の彼の偉業をたたえています。
また、第一回日本移民団がサントス港に上陸した6月18日を<移民の日>という記念すべき国家的行事にさせたのも、後世歴史に銘記されるべき彼の業績の一つです。
男の名は、水野龍 そしてカフェーパウリスタ
コーヒー好きの日本人に覚えて欲しい名前です...