続倉敷珈琲物語 第53話「釣った魚はシャチホコの子だって?」

やっと見つけた資料...「倉敷の文化とキリスト教

その中に出てきた「好事雑報」

 

文明開化の時代にあって、何か変わったものがあれば、たとえ草木であれ、

動物であれ、旧蹟であれ、それをただし、考証をなし広く報知するのが    

「好事雑報」の趣旨であった。

 
と、記されているのだ!

珈琲の文字が出てくるかも...? 期待は膨らんだ。

「好事雑報」は、巻末の参考資料欄に、「県立岡山図書館に第21号まである」とある...

さっそく、図書館へと急いだ。

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「明治の雑誌ですか.....?? ちょっと待ってください...」

しばらく古い目録のようなものを探してくださったようだったが、思いのほか早く目的の「好事雑報」に出会うことができた。

味のあるガリ版印刷のようなその資料は、強く握るとパリンと壊れて指の間からこぼれてしまいそうな歴史を感じさせる風体だった。


好事雑報


倉敷本町、林源十郎の名前が見える。

好事雑報第2号には、林源十郎が、倉敷の北一里の黒田村にある「小野小町壕」について図入りで報じていた。

また、老松の板谷弥平が、「唐柿」と題して、トマトの食法についてただしていた。


唐柿(トマト)の食法

また、3号には、木村和吉が自身の経験から疑問を次のように問い合わせている。



「それは、但馬の温泉に行ったときであった。             

 見たことも無い、非常に珍しい魚を捕らえたのだ。           

土地の人に聞くと、<シャチホコの子>だというのである。     

にわかに信じがたいのだが、その真相をぜひ知りたいものである...」

 

こんなことまで、実にのびのびと、当時の好奇心旺盛な新物好きが投稿してきているのだった。

もしも、珈琲をはじめて見たり、飲んだりしたら、必ずこの雑誌「好事雑報」に投稿しているに違いないと期待はさらにふくらんだ。

タカシは、ひたすら「珈琲」の文字を追った.......もう一度最初から見直してた.....

そしてもう一度.............




 

無い...

 



残念...まだ時代が早すぎたのか? 




この雑誌は明治11年、岡山一番の珈琲のみは明治3年。 

隣町の倉敷で、珈琲のみが出てもおかしくはない...

「倉敷の文化とキリスト教」の中に、次のような一節があった...

 

「木村和吉、板谷弥平、林源十郎は、いずれも倉敷教会の設立者となっている。

このころ、毎週一回、川越伝道師の指導のもとに、木村和吉宅で集会が開かれていた。

倉敷教会略史によると、<木村氏宅の説教会に集まった者は、先ず知識階級の人々で、所謂話聞きの部に属する人が多かった>ことが、記されており、好奇心をもって、新しいものを求めつつあった人々が集まってきたことを反映している」

 

倉敷を異国の人間として初めて訪れた宣教師と密接にかかわり、積極的にキリスト教の普及に努め、自らも比類のない新物好きだった当事の倉敷の人として描かれている、木村和吉、板谷弥平、林源十郎の3人。

 

この3人の誰かが最初に珈琲を倉敷の地で倉敷人として体験している可能性が非常に高いとタカシは考えている。


しかし、記録としては何も残っていなかった...

最後の望みは前述の「倉敷教会略史」しかないが、その資料は岡山には無い。

新島襄同志社大学に重要資料として保管されていることまでやっとつきとめた。

しかし、今までの経緯からして「珈琲」の文字をその中に見出すことは、まず難しいだろう...

あまり期待をせず、同志社の知り合いに調査を依頼したタカシだった...(本当は、期待している)

 

さすがに最初に飲んだ人を探し出すことは大変だった......

 

多くの方から、「そりゃ〜大原孫三郎さんじゃろ〜...!?」 とか、

「ヨーロッパ帰りの児島虎次郎に決まっとるじゃろーが!?」 などと暖かい推理をいただきました。

次回は、その点について、明らかにしておきたいと思います。

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岡山市では思っていたよりも簡単に「珈琲の一番飲み」を見つけることができた。

文化や歴史に関しては岡山よりも倉敷の方がもっと簡単に調べられると思っていた。

倉敷の方々に聞いても「資料は必ずあるはず」といわれる。

しかし、図書館にもどこにもそのような資料はない...

当時のことを覚えていらっしゃる、お年寄りの記憶がさだかなうちにちゃんと聞き取りをして記録に残しておかなければ、永久にわからないままになってしまう

そんなことを思いながら、真相を探し回っておりました