続倉敷珈琲物語 第52話:「倉敷の文化とキリスト教」
図書館の方からいただいた貴重なヒント...「中川横太郎」
「キリスト教」・「宣教師」というキーワードを探るため、まず向かったのは、倉敷キリスト教会だった。
21世紀を間近に控えたその日は、さわやかに晴れ渡り、凛とした冬の空気が心地良い最高の取材日和だった。
<こんな日は、きっといい情報が手に入るぞ!>
クリスチャンでもないタカシにとって、教会というところはなにやら訳も無く敷居の高い場所ではあったが、さわやかな天候に後押しされて足取りも軽く教会へと近づいた..........
倉敷キリスト教会
まだ朝早かったせいか教会の玄関に人気は無かった。
隣接されている幼稚園に次々と父兄が車で子供たちを送り届けてきていた
<ここから入ればいいのかな?>
入り口付近でまごまごしている私の横を、花束を抱えた女性が「スイマセン」と声をかけて通り過ぎ、教会の中へ入っていった。
<結婚式でもあるのかな?> そんな思いが私の頭をよぎった...
「すいません!! おはようございます!」 大きな声をかけてみた
返事は無い、もう一度
「すいません、どなたかいらっしゃいませんか?!」
やはり何の応答も無い。 ふと、入り口の柱にインターフォンがあることに気が付いた.
..<ピンポン♪>
「はい、何のご用でしょうか?」
いつも、ここからが苦労するところだ。
教会と何の関係も無い珈琲の、それも一世紀ほど昔の事を、知りませんかと急に見ず知らずの人間が訪ねてきているのだ...
「実は、珈琲の歴史について.............云々カンヌン............、....................................」
できる限り手短に説明し、なんらかの協力をお願いしてみた。
「そうですなあ〜、たしかに倉敷に初めて入ってきた外人言うたらキリスト教の宣教師かとは思いますけど、珈琲のことまではねえ........?
それに、資料いうてもたいしたものはなんも残っとりませんのですわ。申し訳ないですけど、わかりかねますなあ...」
10分ほどお付き合いいただいたであろうか?
次から次へ、これでもか、これでもかと質問する私にヘキヘキしながらも、誠意を持って対応していただきました。
突然の珍客の相手を長時間していただきましたことを、この場を借りてお礼申し上げます。
しかし、長身の私にとって中腰を要求される高さにあったインターフォン越しの取材は、結局、情報にありつけなかったむなしさと、腰の痛みを残しただけのものとなったのでした.....
<まだ、あきらめへんぞ!!!...>
.....と向かった、倉敷中央図書館の郷土資料室にも、それらしい外人の宣教師の資料をみつけられず.......
<それでも、まだまだ、あきらめへんぞ!!>
....と、岡山大学の図書館を訪ねたのでした。
「あった!」
おもわず声を出してしまいました。それほど、求めていた資料のイメージにぴったりの本だったのです。
本の名は「倉敷の文化とキリスト教」竹中正夫著です。
その本から、ポイントとなる個所を抜き出してみると..........
明治10年には岡山地方にはキリスト教の種がまかれ、それに賛同する小さな群れが既に存在していた。
その先鞭となったのは明治8年の宣教師テーラーの岡山訪問であった。
その斡旋の労をとったのが中川横太郎であった。
そして、岡山から倉敷へであるが......
明治8年以来、アメリカンボートの宣教師たちは、あるときは同志社の学生を伴い、あるときは神戸の教会の信徒と共に岡山にきて伝道にはげんだ。
さらに明治12年6月、同志社を卒業した金森道倫が岡山に赴任するに及び、県下の高橋、天城、倉敷、川辺、惣社、西大寺への伝道がすすめられた。
これらと平行して初期の岡山県下の伝道にあたっては、宣教師ベリーの医療活動が顕著な役割を果たした。
林孚一翁の当時の日記によると、明治11年11月14日に「米人来る」とあり、翌12年6月3日には、「ベリー氏、中川氏、太田氏来る」とあるので、このころに倉敷への伝道がなされたものと思われる。
さらに.....
明治13年2月には、新島襄が岡山県下を歴訪した際、倉敷を訪ねている。
すなわち新島襄の年譜によると次のように記されている。
「明治13年2月13日金曜日、この朝河辺を発して倉敷に到り有志に面会する。」
新島はこの旅行の詳細を旅先から八重子婦人に書き送っている。
それによると新島は、かつて少年のときに快風丸に乗って訪ねたことのある高梁の再訪問の印象を克明に物語っているが、倉敷訪問に同道したのは中川横太郎とベリーであったことが明らかである。
こうした働きによって、倉敷地方にキリスト教に関心を持った人々があらわれ定住してキリスト教の伝道にあたる人を迎えるという動きが出てきた。
明治13年10月29日のことであった。
すなわち、その年に同志社を卒業した川越義雄が、倉敷に定住して伝導にあたるようになった。
明治12年6月に、確かに外国人のベリーさんが倉敷にやってきている。
しかし、キリスト教の資料ということもあって、残念ながらコーヒーの文字は出てこない。
キリスト教の教えと共に、医療活動によって倉敷の人々に献身的な姿を見せたであろう初めてのべリーさんという外国人。
山陽本線が倉敷まで開通する明治24年以前に、関西から伝道の為にやってきた新島襄や金森道倫そして川越義雄。
彼らは、外国人の宣教師と寝食を共にしたはずである。
おそらくはその人一倍強い好奇心から、西洋の人々が口にする黒い不思議な飲み物に強い関心を持ち、恐る恐る自らも試みたことだろう.....?
そして、当時、少なからずキリスト教の教えに関心を示す地方の日本人とは、ある程度の知識階級の方々であり、好奇心を持って新しいものを求めていた人々であったと確信できる。
倉敷も例外ではないであろう。
そうした好奇心旺盛な人々の、生き生きとした当時の生活の様を記録した資料が見てみたい!
そんな気持ちを膨らませながら、タカシは目は先へ急いだのだった...
そして、ある文章が、タカシの目をくぎ付けにした
石坂堅壮を社主として、浅口郡西原村の庄屋忍峡が編集を担当し、倉敷の薬屋林醇平が発売元となって「好事雑報」を明治11年から刊行していた。
文明開化の時代にあって、何か変わったものがあれば、たとえ草木であれ、動物であれ、旧蹟であれ、それをただし、考証をなし広く報知するのが「好事雑報」の趣旨であった。
なんとしても、この「好事雑報」を見てみたい!
コーヒーの文字があるかもしれないのだ.....