続倉敷珈琲物語 第56話  「喫茶 ナ ポ リ 」


「倉敷の珈琲の歴史を調べてるんです...」

 

初めて入った喫茶店「サロニカ」で、私がこうして話し始めるまでには、いすに腰掛けてからおよそ20分ほどが過ぎていた..

楽しそうに語らう常連客と店主の会話を、聞くとはなしに聞きながら、初めて入ったこの店の印象などを走り書きしていた

話の腰を折ることに気が引けて、遠慮しながら待っていたのだった

 

「すいませんねぇ...大きな声でおしゃべりしてばかりで...お仕事の邪魔だったでしょ?」

そんな店主からの言葉がきっかけとなって、私の番が回ってきたのだった

「倉敷の珈琲の歴史といっても、それだけじゃーなくて、世界ではじめて珈琲が発見されてから倉敷にたどり着くまでの道のりを旅しながら歴史を探訪してるんです。でもって、それをホームページに掲載してるんです。」

 

そんな風に話し始めた私は、誠に大雑把ながら面白そうなエピソードをかいつまんで、今までに書いてきたことをお話したのだった。

 

「面白いことをしてる人がおるもんじゃねぇ〜」 と、常連さん

「でもマスヤなんてお店のことは知りませんねぇ〜」と店主

そうしていると、新たな客が入ってきた。

どうやら、この人も常連さんらしい。

最初からいた常連さんが「この人、倉敷の珈琲の歴史を尋ねて...........」と、一通りの説明をしてくれる

「へえー、それじゃったら***のおばあちゃんなんかが知っとるかもわからんなー?」

「ちょっと、電話してみるわ!」と、店主

そうしていると、またまた常連さんの登場となり、「この人面白いことやってるんよ...」と、またまた私の紹介が始まった。

いつのまにかお店のカウンターには常連さんが集まり、倉敷珈琲物語談義が花盛り

みなさん初めて会った方ばかりなのに、気さくに話し掛けてくださる。

話してるうちに、話があちこちへと飛び回り、カウンターの皆さんの素性も知れてきた

輸入雑貨屋さんの店主、画家、デザイナー、陶芸家、などなどなどなど.....

 

なんだろう? この心地良さは? 久しく忘れていたような?

私の頭の中には、ヨーロッパで花開いた「コーヒーハウス」の文化がよみがえっていた

 

まさに、コーヒーハウスだ!

同じ価値観を持つ人々が自然と集う。情報を楽しく共有しながら、お互いに刺激しあう。珈琲を媒体として.....

そんな雰囲気にここサロニカはあふれていた

 

「あらっ! お久しぶり...」

店主のそんな言葉に迎えられた男性が、カウンターに...

「お元気?」 と、他の客

久しぶりに訪れたこの客は、有名なカレー屋さんのご主人だった。

 

この方にも一通り今まで進展のあった倉敷の珈琲の話題が紹介された..

「僕なんかがよく行っとたんは、ナポリじゃったな〜...。もう、なくなったけどな〜」 と、カレー屋さんの言葉。

「そうそう、ナポリ! 私もよく行ったわ!」

「うん、あそこが一番古いんじゃ〜ねえ〜かな〜?」

 

「どこにあったんですか?」

「駅前の、狭い路地よ。ふるいちのあんこやを商店街に入る狭い道があろう...? 今はパチンコやかな〜?」

「そうそう、あったあった。 昔喫茶店いうたらナポリじゃったよな〜! 高校のころからよう行ったもんじゃ」

「そりゃ〜うちなんかより、ず〜と古い喫茶店よ! それより昔からある喫茶店を知ってる人はほとんどいないでしょう〜?」

 

なんと珈琲好きの皆さんの記憶にはっきりと残る「喫茶ナポリ」!

どんな店だったのだろう? どうやら倉敷でのエポックメイキング的な喫茶店はこの「喫茶ナポリ」のようである。

その後も様々な珈琲談義が続いた。

もっといたい気持ちを押さえ、もう一度訪ねることを確信しながら店を後にした。




私がお世話になっているある会社の社長さんのお父様が、かなり高齢にもかかわらず矍鑠としていらっしゃったのを思い出し、ぜひマスヤやナポリのことを聞いてみたいと、訪ねてみた。

「マスヤ...? 知らん」

この一言で終わった。

しかし、ナポリに関しては違っていた。

訪ねた社長さんの知り合いに、ナポリのオーナーの方を知っている方がいらっしゃったのだ!

あまりの偶然に驚いた。

無理を承知で、知り合いの方に電話を入れていただき、何でも良いから「喫茶ナポリ」に関する情報提供をお願いしてみた。

 

 

数日後、電話が鳴った。

「写真を持ってきてくださったよ!」社長さんからのうれしい電話だった。

さっそくその写真を受け取りに......

 

なんと、モダンな! 今でも十分通用する....というか、こんな店があっても楽しそう...

その写真に記載されている数字は、当時の年号だろうか...? 

昭和15年1月20日。 

まさしく今までに見つけた最も古い倉敷の喫茶店ズバリの写真であった。

 

「やっとみつけた!」 大げさではなく、手が震え、感動した。

そのセピア色の写真を何度も何度も見返し、私は余韻を楽しんだ.........

 

喫茶ナポリ



昭和初期の倉敷で、多くの人々に愛された喫茶ナポリ

珈琲が庶民に浸透していき、そこに集う人々が新たな文化を形作ったことだろう

この写真を見て、その当時の思い出をぜひ若い人に伝えて欲しい!

こんな大切な歴史を途絶えさせることが無いように.....

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10年前に書いた内容を振り返りながら、またサロニカさんへ行きたいと思った。

店主の方はお元気だろうか?

その後の物語の進展についてもお話ししなければ...

近いうちに行ってみよう

続倉敷珈琲物語 第55話「昭和3年...喫茶店二...!」

倉敷で最初の喫茶店はどこにあったのだろう? 

なんていう名前の店だったのかな?

さらには、岡山での「カッフェー・ブラジル」のように、みんなに愛され、時代のエポックメイキング的な役割を果たした、倉敷の喫茶店とは、いったいどこだったのだろうか?

 

図書館の郷土資料には、古い喫茶店の情報は何もなかった...

図書館司書の方に相談すると、それらしい資料が市役所にあると言う...

お願いして、市役所の市史編纂室から一冊の資料を取り寄せていただいた。


倉敷市案内」 玄石文庫 倉敷市発行

 

昭和3年の発行である。

この資料の中には、当時の倉敷の産業に関する統計データが記されていた。

当時の喫茶店に関する記述を探したところ、次のようなページを見つけることができた。

 

倉敷市案内」 玄石文庫 114ページ



当時の日本における「カフェー」とは、女給さんのいるお酒を飲むところであった。

最後の記述に「喫茶店二」という字が見えるだろうか?

たったこれだけである。 

たったこれだけ、「喫茶店二」という記述が、現在の倉敷市の郷土資料から得ることができる初期の喫茶店の歴史の全てであった。

 

昭和3年当時、倉敷市には
二つの喫茶店がたしかに存在していた!

 

どこに.....? 名前は.....? 気になるところであるが、この資料からは何も読み取れない.....

巻末に協賛したと思われる商店の宣伝のページが載っていた。

 

コーヒー.........!?

 

ぱらぱらとページを流していた私の目に、コーヒーの文字の残像がかすかに残った...............

もう一度! 今度はゆっくり..................................




あった!



たしかに、「コーヒー」を食料品として扱っていたことがわかる。

そして、「マスヤ喫茶部」というその場所で、喫茶ができる店がたしかに存在していた事もわかる。


当時の記録の「喫茶店二」の中の1つは、この「マスヤ喫茶部」であることは間違いないだろう。


茶店でコーヒー茶碗に入ったコーヒーを振る舞い、気に入った客にはコーヒー茶碗もコーヒーも販売するという、なかなか商売上手な様が見て取れる......

 

残念ながら、残り1つの店の情報は何も載ってはいなかった......

 

当時のマスヤ喫茶部に行ったことがある人や、覚えている人はいないだろうか?

コーヒー一杯いくらだったのだろう?

 

昭和3年当時、目新しい喫茶店に出入りできる人は、そこそこのお金持ちか、新物好きか.......?


どちらにしても、だれかれとなく出入りしていたとは思えない。


そんな場所に入れる年齢を仮に20歳としても、昭和3年は1928年だから、当時二十歳の人は今なんと93歳である。
(この文章を書いたのが2001年でしたので、2011年の今では103歳になります)

いろいろと、お年寄りにマスヤ喫茶部のことを尋ねて回ったが、今のところ知っている人にめぐり合うことはできていない...

もしも、マスヤ喫茶部を知っていると言う方がいらっしゃったら、ぜひ、ぜひ、ご一報をお願いします!

                                                                                      • -


さて、行き当たりばったりに、昭和3年の喫茶店のことをお年寄りに尋ねても、さっぱり情報が入らないので、今度は方針を変えて、倉敷に古くから店を出されている、喫茶店の老舗めぐりを始める事とした...


岡山でのカッフェ・ブラジルのように、今はなくても人々の思い出にずっと生き続けているような.....そんな倉敷の最初の喫茶店を探すことも、大切な目標なのであった.......


地元の人に古くからある喫茶店を尋ねると、老松町の「小山珈琲」さんの名前がかえってきた.....

 

改装したばかりの店内は明るく清潔感があって、老舗とは思えないモダンな雰囲気であった。

「1976年からやってますけど、うちよりももっと古くからやってらっしゃるお店がありますよ....」


と言って教えてくださったのが、美観地区にある「珈琲館」さんと、美観地区に隣接する「サロニカ」さんだった。

 

倉敷川沿いに美観地区を突き抜けると、アンチークな雰囲気一杯の「サロニカ」さんが見えてくる。

見えてくると言っても、よくよく見なければ開店している喫茶店とはすぐにわからないかもしれない。

店先の小さなランプの灯りがオープンの合図のようだった。

 

<カランカラン>というカウベルの軽い響きが私の存在をでしゃばらずに伝えてくれた....

「いらっしゃいませ...」

ステンドグラス越しに入ってくる、やわらかいあかり.....

外から入ると、少し薄暗く思えた店内だったが、妙な、まあるい空気に包まれた気がした...

 

常連さんと思われる女性がカウンターに...

この店は初めてだったが、取材をしたい気持ちも手伝って、私はカウンターに近づき、革張りのいすに腰掛けた...

「こんにちは」

 
このときの私は、不思議と、これから何度もここを訪れることになる......そんな予感がしていた...

続倉敷珈琲物語 第54話「一番のみは、孫三郎? はてさて虎次郎...?」

おそらく倉敷一の有名人? 今でも多くの人々にその偉業の数々が語り継がれている...

クラレを創設し、大原美術館を作った人...そう、その名は 「大原孫三郎」



「倉敷の地で最初に珈琲なるものを飲んだのは誰だと思う...?」

こんな質問を差し向けると、かなりの人が 「大原さんかな...?」 と、首をかしげながら答えることだろう...

ちょっとした美術ファンなら 「ヨーロッパへ絵の勉強に行った児島虎次郎じゃろ〜...?」 と答えるかもしれない。

古き良き時代、倉敷でハイカラと言えば、大原家にゆかりがあるもの...とみんなが思い、また実際そうであったろう!

 

岡山での最初の珈琲飲みは明治3年、外人の住む洋館での事...

倉敷へ外人さんが入ってきたのは約10年後の明治12年。

そのとき、大原孫三郎は、どんな状況だったのだろう...?

 

幸いなことに地元倉敷に大原家に関する資料は充実している

資料から、大原孫三郎の年譜を見てみると...

明治13年(1880):大原孝四郎の三男として生まれる。

明治30年(1897):遊学のため上京、東京専門学校に入学。

明治31年(1898):放蕩がこうじて倉敷に連れ戻される。

そう! 明治12年には、まだ生まれていなかった...

若くして東京に遊学し、相当遊んだようだ...

明治30年ごろの東京での喫茶店を思い出してみよう...



明治23年(1890)



浅草公園



ダイヤモンド珈琲店



明治26年(1893)



麻布



風月堂喫茶室



明治29年(1896)



 


木村屋パン店の喫茶室



明治38年(1905)



銀座8丁目



台湾喫茶店「ウーロン亭」



明治43年(1910)



日本橋小網町



メイゾン鴻の巣



明治43年(1910)



大阪の川口居留地近く



キサラギ



明治44年11月(1911



京橋区日吉町



カフェ・プランタン



明治44年8月(1911



尾張町新地1丁目



カフェ・ライオン



大正1年(1912)



京橋区南鍋町



カフェ・パウリスタ




1888年開業の「可否茶館」以後大正を向かえるまでに、記録に残っている日本の喫茶店はこの9件だけであった。

こうしてみると、当時はまだまだ珈琲店黎明期であり、孫三郎が東京で珈琲の味を覚えた可能性は低いと思われる。

ましてや、連れ戻されるときにわざわざ珈琲を持ち帰り、倉敷の人々に紹介したとは思えないのであるが、いかがでしょうか?

 

孫三郎の数多い資料に一通り目を通してみたが、やはり珈琲に関する記述を見つけることはできなかった。

念のためと思い、アイビースクエアーの中にあるクラボウ記念館の館長さんにもお会いしてお話を伺ってみたが...

「いや〜 私もそれほど詳細に孫三郎伝を読んだことがありませんし、珈琲に関して特別な記述があったようには記憶しておりませんな〜...」

という回答であった。

 

では、児島虎次郎はどうであろうか?


明治14年(1881) 4月岡山県川上郡下原村(現在の成羽町下原911)で生まれる。

明治35年(1902) 東京美術学校西洋画科選科に入学。大原孫三郎と出会い、大原家の奨学生となり生涯援助を受ける。

明治40年(1907) 東京勧業博覧会美術展で「なさけの庭」(宮内省 買い上げ)「里の水車」が、共に一等賞になる。




孫三郎の1つ年下だ...

若くして虎次郎は孫三郎と出会い、画家への支援を受けるようになる。

虎次郎の長年にわたる努力を見守っていた孫三郎は、この受賞を機に、さらなる勉強のためには虎次郎が切望してやまぬ欧州留学しかないと見極め、翌明治41年1月、5ヵ年の渡航留学の許可を与えたのであった。


明治41年(1908) 1月25日土曜日午前11時

虎次郎、神戸出港の日本郵船佐渡丸の二等客船に乗り込み憧れのフランスへと旅立った。

 

虎次郎の欧州の記録は、「児島虎次郎略伝」児島直平著 に虎次郎の日記を元に詳細に残されている。

その記録の中に、「珈琲」の文字を探した........



「児島虎次郎略伝」児島直平著 より

明治42年(1909) 10月25日(月) ......午前の学校から帰れば、午後は室でストーブを焚いて長屋の百号の絵を描いて居る。寒くなった。四時ごろから灯りが要る。筆を洗ってカッフェを飲んで直ちに夕の学校に出かけるので、なかなか忙しいことである。


ベルギーのガン美術学校へ通う日常で、初めて出てくるカッフェの文字である。

その表現から虎次郎が日常的にカッフェに親しんでいる様が良く伝わってくる。

記録には残念ながら虎次郎がはじめてカッフェを体験した様子は語られていなかった。

 

もう一箇所カッフェに親しむ虎次郎の姿を見て取れる個所があった...明治43年のイタリア旅行のことである...



明治43年(1910) 4月26日 朝、一銭蒸気船に乗る。午後、的もなく町裏を西から東へ歩き回る。夜、寺崎君来訪、サンマルコのカッフェに十一時すぎまで語る。


サンマルコのカッフェで友と語らう虎次郎の姿が浮かぶ...

虎次郎は大正元年(1912)11月26日、五年ぶりに故国の土を踏む。

その翌年の1月4日、虎次郎は孫三郎に招かれて会食をしているが、そのときに「土産に持ち帰った珈琲をみんなで楽しく飲む...」などという記録は残念ながら何も残っていなかった........


孫三郎は洋風なものがあまり好きじゃ〜なかったのかな...? 

虎次郎は何をお土産に買ってきたんだろうか?

援助してもらってたら、お土産なんて考えなかったのかな...? 


なんていろいろ考えながら、さらに資料を見ていくと、孫三郎の後を継いだ大原総一郎の珈琲にまつわる実話を見つけたので紹介することにします。



見つけた資料は「わしの眼は十年先が見える-大原孫三郎の生涯」城山三郎著である。

その中に記載されている2箇所の珈琲に関する部分を抜き出してみると........



総一郎はいわゆる茶道具は売り払ったものの、孫三郎が晩年愛した民芸の世界はそのまま受けつぎ、さらに棟方志功などの新たな後継者ともなった。

その棟方に、ある日、総一郎は訊いた。
「画伯は、作曲家は誰が好きですか」

とくに音楽通でもない棟方は、思いつくままにベートーベンの名をあげた。

総一郎はすかさず、

「じゃ、シンフォニーを、1から9まで全部聞きましょう」

こうして、コーヒーを飲みながら、徹夜でベートーベンの九つの交響曲すべてを聞く羽目になった。




無類の音楽好きであった総一郎と世界的版画家の棟方志功の残したコーヒー物語。

一日に60杯ものコーヒーを飲んだと言われているベートーベンの曲だったことは単なる偶然だろうか...?

 

もう1つ、コーヒーにまつわる物語を....

倉敷のシンボル大原美術館の隣、蔦の絡まるアンチークな喫茶店をご存知だろうか?

この喫茶店は、こんな風にして生まれたのでした.....




やはり倉敷川に面した美術館の隣には、大原家の管理会社が事務所に使っている洋館があった。

名画を堪能した客は、そのあとゆっくりコーヒーでものみたくなる。

総一郎はそうした客の気持ちを察して、孫三郎の秘書であった佐々木浦江にその洋館で喫茶店を営むようにすすめた。
店の名前は「エル・グレコ」、緑の蔦に蔽われ、いまは美術館の一風景にもなっている。

 

もしも、総一郎がコーヒー好きでなかったら、エル・グレコはなかったかもしれないのだ....

この話も、倉敷のコーヒー物語の1つであろう...

この次エル・グレコに行くときは、総一郎の熱い思いを思い出しながらコーヒーを味わってくださいね!

続倉敷珈琲物語 第53話「釣った魚はシャチホコの子だって?」

やっと見つけた資料...「倉敷の文化とキリスト教

その中に出てきた「好事雑報」

 

文明開化の時代にあって、何か変わったものがあれば、たとえ草木であれ、

動物であれ、旧蹟であれ、それをただし、考証をなし広く報知するのが    

「好事雑報」の趣旨であった。

 
と、記されているのだ!

珈琲の文字が出てくるかも...? 期待は膨らんだ。

「好事雑報」は、巻末の参考資料欄に、「県立岡山図書館に第21号まである」とある...

さっそく、図書館へと急いだ。

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「明治の雑誌ですか.....?? ちょっと待ってください...」

しばらく古い目録のようなものを探してくださったようだったが、思いのほか早く目的の「好事雑報」に出会うことができた。

味のあるガリ版印刷のようなその資料は、強く握るとパリンと壊れて指の間からこぼれてしまいそうな歴史を感じさせる風体だった。


好事雑報


倉敷本町、林源十郎の名前が見える。

好事雑報第2号には、林源十郎が、倉敷の北一里の黒田村にある「小野小町壕」について図入りで報じていた。

また、老松の板谷弥平が、「唐柿」と題して、トマトの食法についてただしていた。


唐柿(トマト)の食法

また、3号には、木村和吉が自身の経験から疑問を次のように問い合わせている。



「それは、但馬の温泉に行ったときであった。             

 見たことも無い、非常に珍しい魚を捕らえたのだ。           

土地の人に聞くと、<シャチホコの子>だというのである。     

にわかに信じがたいのだが、その真相をぜひ知りたいものである...」

 

こんなことまで、実にのびのびと、当時の好奇心旺盛な新物好きが投稿してきているのだった。

もしも、珈琲をはじめて見たり、飲んだりしたら、必ずこの雑誌「好事雑報」に投稿しているに違いないと期待はさらにふくらんだ。

タカシは、ひたすら「珈琲」の文字を追った.......もう一度最初から見直してた.....

そしてもう一度.............




 

無い...

 



残念...まだ時代が早すぎたのか? 




この雑誌は明治11年、岡山一番の珈琲のみは明治3年。 

隣町の倉敷で、珈琲のみが出てもおかしくはない...

「倉敷の文化とキリスト教」の中に、次のような一節があった...

 

「木村和吉、板谷弥平、林源十郎は、いずれも倉敷教会の設立者となっている。

このころ、毎週一回、川越伝道師の指導のもとに、木村和吉宅で集会が開かれていた。

倉敷教会略史によると、<木村氏宅の説教会に集まった者は、先ず知識階級の人々で、所謂話聞きの部に属する人が多かった>ことが、記されており、好奇心をもって、新しいものを求めつつあった人々が集まってきたことを反映している」

 

倉敷を異国の人間として初めて訪れた宣教師と密接にかかわり、積極的にキリスト教の普及に努め、自らも比類のない新物好きだった当事の倉敷の人として描かれている、木村和吉、板谷弥平、林源十郎の3人。

 

この3人の誰かが最初に珈琲を倉敷の地で倉敷人として体験している可能性が非常に高いとタカシは考えている。


しかし、記録としては何も残っていなかった...

最後の望みは前述の「倉敷教会略史」しかないが、その資料は岡山には無い。

新島襄同志社大学に重要資料として保管されていることまでやっとつきとめた。

しかし、今までの経緯からして「珈琲」の文字をその中に見出すことは、まず難しいだろう...

あまり期待をせず、同志社の知り合いに調査を依頼したタカシだった...(本当は、期待している)

 

さすがに最初に飲んだ人を探し出すことは大変だった......

 

多くの方から、「そりゃ〜大原孫三郎さんじゃろ〜...!?」 とか、

「ヨーロッパ帰りの児島虎次郎に決まっとるじゃろーが!?」 などと暖かい推理をいただきました。

次回は、その点について、明らかにしておきたいと思います。

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岡山市では思っていたよりも簡単に「珈琲の一番飲み」を見つけることができた。

文化や歴史に関しては岡山よりも倉敷の方がもっと簡単に調べられると思っていた。

倉敷の方々に聞いても「資料は必ずあるはず」といわれる。

しかし、図書館にもどこにもそのような資料はない...

当時のことを覚えていらっしゃる、お年寄りの記憶がさだかなうちにちゃんと聞き取りをして記録に残しておかなければ、永久にわからないままになってしまう

そんなことを思いながら、真相を探し回っておりました

続倉敷珈琲物語 第52話:「倉敷の文化とキリスト教」

図書館の方からいただいた貴重なヒント...「中川横太郎」

キリスト教」・「宣教師」というキーワードを探るため、まず向かったのは、倉敷キリスト教会だった。

21世紀を間近に控えたその日は、さわやかに晴れ渡り、凛とした冬の空気が心地良い最高の取材日和だった。

<こんな日は、きっといい情報が手に入るぞ!>

クリスチャンでもないタカシにとって、教会というところはなにやら訳も無く敷居の高い場所ではあったが、さわやかな天候に後押しされて足取りも軽く教会へと近づいた..........


倉敷キリスト教

まだ朝早かったせいか教会の玄関に人気は無かった。

隣接されている幼稚園に次々と父兄が車で子供たちを送り届けてきていた

<ここから入ればいいのかな?>

入り口付近でまごまごしている私の横を、花束を抱えた女性が「スイマセン」と声をかけて通り過ぎ、教会の中へ入っていった。

<結婚式でもあるのかな?> そんな思いが私の頭をよぎった...
 

「すいません!! おはようございます!」 大きな声をかけてみた

返事は無い、もう一度
「すいません、どなたかいらっしゃいませんか?!」

やはり何の応答も無い。 ふと、入り口の柱にインターフォンがあることに気が付いた.

 

..<ピンポン♪>

 

「はい、何のご用でしょうか?」

いつも、ここからが苦労するところだ。

教会と何の関係も無い珈琲の、それも一世紀ほど昔の事を、知りませんかと急に見ず知らずの人間が訪ねてきているのだ...


「実は、珈琲の歴史について.............云々カンヌン............、....................................」

できる限り手短に説明し、なんらかの協力をお願いしてみた。


「そうですなあ〜、たしかに倉敷に初めて入ってきた外人言うたらキリスト教の宣教師かとは思いますけど、珈琲のことまではねえ........?

それに、資料いうてもたいしたものはなんも残っとりませんのですわ。申し訳ないですけど、わかりかねますなあ...」

10分ほどお付き合いいただいたであろうか?
次から次へ、これでもか、これでもかと質問する私にヘキヘキしながらも、誠意を持って対応していただきました。
突然の珍客の相手を長時間していただきましたことを、この場を借りてお礼申し上げます。


しかし、長身の私にとって中腰を要求される高さにあったインターフォン越しの取材は、結局、情報にありつけなかったむなしさと、腰の痛みを残しただけのものとなったのでした.....

<まだ、あきらめへんぞ!!!...> 

.....と向かった、倉敷中央図書館の郷土資料室にも、それらしい外人の宣教師の資料をみつけられず.......

 

<それでも、まだまだ、あきらめへんぞ!!>

....と、岡山大学の図書館を訪ねたのでした。

 

「あった!」

おもわず声を出してしまいました。それほど、求めていた資料のイメージにぴったりの本だったのです。

本の名は「倉敷の文化とキリスト教」竹中正夫著です。

 

その本から、ポイントとなる個所を抜き出してみると..........

明治10年には岡山地方にはキリスト教の種がまかれ、それに賛同する小さな群れが既に存在していた。

その先鞭となったのは明治8年の宣教師テーラーの岡山訪問であった。

その斡旋の労をとったのが中川横太郎であった。

 

そして、岡山から倉敷へであるが......

 

明治8年以来、アメリカンボートの宣教師たちは、あるときは同志社の学生を伴い、あるときは神戸の教会の信徒と共に岡山にきて伝道にはげんだ。

さらに明治12年6月、同志社を卒業した金森道倫が岡山に赴任するに及び、県下の高橋、天城、倉敷、川辺、惣社西大寺への伝道がすすめられた。

これらと平行して初期の岡山県下の伝道にあたっては、宣教師ベリーの医療活動が顕著な役割を果たした。

林孚一翁の当時の日記によると、明治11年11月14日に「米人来る」とあり、翌12年6月3日には、「ベリー氏、中川氏、太田氏来る」とあるので、このころに倉敷への伝道がなされたものと思われる。

 

さらに.....

 

明治13年2月には、新島襄岡山県下を歴訪した際、倉敷を訪ねている。

すなわち新島襄の年譜によると次のように記されている。

「明治13年2月13日金曜日、この朝河辺を発して倉敷に到り有志に面会する。」

新島はこの旅行の詳細を旅先から八重子婦人に書き送っている。

それによると新島は、かつて少年のときに快風丸に乗って訪ねたことのある高梁の再訪問の印象を克明に物語っているが、倉敷訪問に同道したのは中川横太郎とベリーであったことが明らかである。

こうした働きによって、倉敷地方にキリスト教に関心を持った人々があらわれ定住してキリスト教の伝道にあたる人を迎えるという動きが出てきた。

明治13年10月29日のことであった。

すなわち、その年に同志社を卒業した川越義雄が、倉敷に定住して伝導にあたるようになった。

 

明治12年6月に、確かに外国人のベリーさんが倉敷にやってきている。

しかし、キリスト教の資料ということもあって、残念ながらコーヒーの文字は出てこない。

キリスト教の教えと共に、医療活動によって倉敷の人々に献身的な姿を見せたであろう初めてのべリーさんという外国人。

山陽本線が倉敷まで開通する明治24年以前に、関西から伝道の為にやってきた新島襄や金森道倫そして川越義雄。

彼らは、外国人の宣教師と寝食を共にしたはずである。

おそらくはその人一倍強い好奇心から、西洋の人々が口にする黒い不思議な飲み物に強い関心を持ち、恐る恐る自らも試みたことだろう.....?

そして、当時、少なからずキリスト教の教えに関心を示す地方の日本人とは、ある程度の知識階級の方々であり、好奇心を持って新しいものを求めていた人々であったと確信できる。

倉敷も例外ではないであろう。

そうした好奇心旺盛な人々の、生き生きとした当時の生活の様を記録した資料が見てみたい!

そんな気持ちを膨らませながら、タカシは目は先へ急いだのだった...

 

そして、ある文章が、タカシの目をくぎ付けにした

石坂堅壮を社主として、浅口郡西原村の庄屋忍峡が編集を担当し、倉敷の薬屋林醇平が発売元となって「好事雑報」を明治11年から刊行していた。

文明開化の時代にあって、何か変わったものがあれば、たとえ草木であれ、動物であれ、旧蹟であれ、それをただし、考証をなし広く報知するのが「好事雑報」の趣旨であった。


なんとしても、この「好事雑報」を見てみたい!

コーヒーの文字があるかもしれないのだ.....

続倉敷珈琲物語 第51話「送られて来たヒント!」

倉敷の地で最初に珈琲を飲んだのはいったい誰だろう...?

それは、どこで...?                 

岡山では明治3年(1870年)ロイトル・ボードウィンの
通訳「大原利謙」が最初の珈琲飲みだった...      

倉敷ゆかりの石坂桑亀が長崎でシーボルトと珈琲を飲んだ
であろう年は1823年であった.....           

それから20年 県北の地ですごした後1842年.石坂桑亀は
倉敷へ転居してくる。しかしそんな長い間珈琲を保管して
いて倉敷へ転居する際に持ってきたとは考えにくい............

倉敷中央図書館の郷土資料を片っ端から読みあさっても、
珈琲の事など何も出て来ない.....           

途方に暮れかけていたとき、一通の茶色い封書を郵便受けに見つけた!

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前略

 倉敷のコーヒーの歴史に関してご調査のためご来館がありましたが、明治から大正にかけて、さしたる記録がございません。

 郷土史家に尋ねましたら、明治20年代、岡山の『中川横太郎』がキリスト教の布教に来倉していますので、そのころかと言います。

 しかし、これも外人の牧師を同伴していたであろうからというだけで、記録はありません。

 そのころ、山陽線は倉敷まで来ていますから、神戸も東京も行ける訳で、それを言うなら若くして東京へ遊学した大原孫三郎のほうが可能性はあります。
しかし、彼の上京は明治29年か30年頃ですから、それより前の人がいたはずです。

お答えにはなりかねますが、中間報告いうことでご了承下さい。

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倉敷中央図書館の方からの丁寧な報告書

初めて図書館を訪れた時、調べて見ると約束していただいた方からだった。

ありがたい! 何から探ればよいか、闇夜の中で一筋の灯りを見つけた気分だった...

やはり、当時の倉敷に珈琲を持っている日本人がいるはずもなく、外国人が持ち込んだ珈琲を興味津々で体験したと考えるのが自然だろう...

では、倉敷に最初にやってきた外国人は誰だろう?

何のために?

手紙に書いてあったように、布教のためにというのが、当時外国人が日本の地方を訪れる唯一の目的だったのかもしれない。

それと、中川横太郎...いったいだれだろう?

人名辞典で調べて見た

中川横太郎(なかがわよこたろう)
1836〜1903(天保7〜明治36)
岡山市番町の人

明治時代の実業家、教育事業家
1872年(明治5)学区取締となり、県内小学校新設に尽力。
また、岡山県病院の充実や医学校(現岡山大学医学部)の設立にも力を注ぐ。
官吏としては、美作血税一揆や地租改正反対闘争に、得意の弁舌で事態を収拾。
のち、県を辞し自由民権運動キリスト教布教に従事、金森通倫や新島襄らとも親交を深める。

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この中川横太郎が連れてきた外国人とはいったい誰だろう?

医者? それともやはり宣教師?

珈琲を飲んでいたのかな?

そんな記録が残っているのか?

キリスト教』『宣教師』をキーワードに、もう一度、岡山と倉敷の郷土資料館で調べて見よう!

そして、倉敷のキリスト教会へも取材に行って見よう!

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倉敷中央図書館の方には本当に親切にしていただきました。
改めてここにお礼を申し上げます。

文化都市倉敷のことだから簡単に見つかると思っていた倉敷の珈琲物型でしたが、思わぬ苦戦を強いられ、「珈琲」という文字を探す旅はまだ続くのでした...

続倉敷珈琲物語 第50話「シーボルト先生の珈琲販売論」

倉敷ゆかりの「石坂桑亀」は、洋学を学ぶため1823年長崎へ赴き、シーボルト鳴滝塾の門下生となった。
日本にコーヒーを持ち込んだオランダ人がいた出島なら、そこを訪れた日本人がコーヒーを体験する可能性が高いと言える。
そこで、シーボルトとコーヒーの関わりについて、もう少し詳しく調べることにしたのだった...

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たしか、カピタンの出島から江戸への参府の記録を調べたとき、ケンプエルやヅーフといっしょにシーボルトの記録も図書館から借りたのだが、始めての物語ばかりに気をとられて良く見てはいなかった...

しかし、今までに集めた資料の中に、シーボルトに関しての情報を持っている事をタカシは覚えていた。

奥山儀八郎先生の「コーヒーの歴史」の中に、「シーボルト先生の珈琲販売論」という章があったのだ...

ここで、明らかにしたいことは、

* シーボルトは、はたして自分の弟子に飲ませるほどのコーヒー好きだったのか?
* コーヒーの事に関してある程度の知識を持っていたのか?
* 人に飲ませるほど、当時十分な量のコーヒーを持っていたのか?
* 石坂桑亀にコーヒーをふるまったというような記述が残る資料は実在するのか?

こんなところだろう...

少々長くなるが、古い言葉で書かれている「シーボルト先生の珈琲販売論」を、私なりに現代言葉に直して全文を読んで見ることにした...



 シーボルト先生の珈琲販売論 (奥山儀八郎著:コーヒーの歴史より)

1823年、出島のオランダ館の医者として来日したシーボルト先生は、その日本紀行に珈琲について面白い意見を述べられている。次にそれを書き出して見ることにする。


ある晩に我々は長府公の侍医の訪問を受けた。

私(シーボルト)は、この侍医に数種類の新薬と一つの小冊子を進呈した。

この冊子は我々がヨーロッパでも使っている薬草で、日本にあるもの、及びその代用品と2〜3の新しい輸入薬を選んで記載してあるもので『薬品応手録』と題してある。

これは私の門人、阿波の高良齋が日本語に翻訳して序文を付け、私の費用で出版したものだ。

私たちは既にその数百部を頒布したが、それは医者の注意を日本にもある有効な新薬草、ならびに今まであまり人が知らない他国の薬剤に向けて、その販路を開くことを目的としたものであった。

その中には、例えばALYXIA REINWARDTIといって、瓜哇では熱発下剤に用いてよく輸出されるもの、ジキタリス海葱ヒスチアムスなど、以前には日本では知られていない薬品をあげてあるが、その他アラック(酒名)、カヤプート油、珈琲なども漏れなく記載した。

特に、珈琲の治効のあることに意を用いて記している。

日本人は暖かい飲み物だけを飲み、交際的な会合生活を好むにもかかわらず、また200年以上も世界の珈琲商人(オランダ人)と交易しながら珈琲がまだ日本人の飲み物となっていないことは実に驚くべきことである。
日本人は我々と会合するときは好んで珈琲を飲む。

そして1年間に数ピコル(1ピコルは約60Kg)では、長崎の私の知り合いのオランダ人達が珈琲を欲しがるので、足りないほどである。

であるから、日本の一般の人々に珈琲を飲むという小さな不徳を教えることは、その労にむくいるだけの功績もまたあることと思われる。
このことは、きちんと計画を立てて実行すれば不可能なことではないと思われる。

そのためには、珈琲を賞賛する宣伝を行なうことが良いだろう。

例えば、珈琲は長生きの為の良薬であって、特に日本の様な国でこそ保健剤として用いるべきだと推奨すればよい。

ただし、珈琲を日本に勧めるのに問題が2つある。

一つは、焙煎には難しい技術を必要とすること。

そして、もう一つは、日本人が生まれつき、仏戒にふれることから牛乳を飲む習慣がないことである。

牛乳は白い血と考え、血を流すのはもちろん、血を飲むことは罪深いことと考えているのだ。

また、日本人は知識も持たずに適当に焙煎を行なうので、すぐに煎りすぎてしまい、私たちが推奨する珈琲の味とは程遠いものとなっていまい、珈琲の評判を損なうこととなってしまう。

その対策として次のようにすればよいと、私はオランダ政府に勧告したことがある。それは...

『毎年数千ポンドの珈琲を日本に送る事、それは焙煎し粉に挽いてきれいなカンかビン詰めとし、レッテルを貼り、調理方法と飲み方の指図書を記入すること。』

これが、私が切望するところであった。



まずシーボルト先生のコーヒーに対する知識であるが、

  医者として、珈琲の薬としての効果を自費出版までして広めている。
  
  また、珈琲の売り込み方までを非常に的確に指示していることからしても、かなりの珈琲愛好者だったものと思われる。

次に、人にふるまうほどの量があったかどうかだが...

  一年間に数ピコルとは、一体どの程度のコーヒーが飲める量であろうか?
  1カップに10グラム使うとして、1年間で5〜6ピコルだと、1日に約80〜100杯のコーヒーを飲んでいた事になる。

  当時の出島にいたオランダ人は多くても10人程度であるから、1日に80〜100杯ものコーヒーのおこぼれをいただいた日本人がいたと言っても良いであろう...

奥山先生も、当時シーボルトの側近の日本人、すなわち蘭通詞とか丸山遊女とか蘭学者の門人達もコーヒーマニアだったかもしれないと記されている。

こうした事実からして、倉敷人の石坂桑亀もシーボルトの門下生としてコーヒーを飲んだ可能性が非常に高いと思われるのであった。

残念ながら、石坂桑亀が珈琲を飲んだというはっきりとした記述を見つけることは今のところできていない。

引き続き情報収集を心がけたい。


石坂桑亀

状況証拠だけとなってしまったが、倉敷ゆかりの最初に珈琲を飲んだ人は『石坂桑亀』であると結論付けて、次は倉敷の地で最初に珈琲を飲んだ人を捜す旅に出かけることにしたタカシでありました...
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この話に出てくる「薬品応手録」については長崎大学薬学部のホームページに詳しく紹介されています。
興味のある方はぜひどうぞ 
http://www.ph.nagasaki-u.ac.jp/history/research/material/material3.html