続倉敷珈琲物語 「鄭永慶の孫でございます」...思いがけないメールが届いた


倉敷珈琲物語のエピローグを書いたのは、今から10年前の5月でした。

長い長い、2年半にも及ぶコーヒーロードの旅でした。

物語を完成させたとき、この長い旅にお付き合いいただいていた多くの読者の方々から、完成のお祝いメールをいただき、感激したことをよく覚えています。

まったく珈琲のことを知らなかった私も、そこそこ珈琲の文化と歴史について薀蓄を言えるようになりました。

書き上げた後で、心に引っかかっていた鄭永慶先生のお墓探しも成功し、すがすがしい気持ちで書き終えたことを覚えています。

このような物語を書くきっかけを作ってくださった、倉敷の喫茶店ルモンドを経営する株式会社山田興産の山田社長に深く感謝申し上げます。

また、数多くの資料などを提供下さったり、調査にご協力いただいた方々にも、改めて御礼申し上げます。

本当にありがとうございました。




お墓の発見から約2年たった、2002年8月 一通のメールが届いた


「はじめまして 

私は鄭永慶の孫(長男の長男)でございます」



また、新たな旅の予感がした.....

続倉敷珈琲物語 「喫茶店の日 可否茶館 開業123周年記念会」

昨日の喫茶店の日に、日本最初の本格的な喫茶店「可否茶館」の創業跡地であり、2008年に記念碑が建立された場所(現在の三洋電気東京ビル)にて、可否茶館開業123周年記念会が開催されました。

いつも、会場としてご協力いただいております三洋電気さんには心より感謝申し上げます。ありがとうございました。

今年で4回目のその会には、鄭家の子孫会の方々や珈琲文化学会の方々をはじめ、珈琲業界の様々な方々が集い盛況でした。

今年は私がその会で講演をさせていただきました。

その講演では、倉敷珈琲物語をはじめ、書き上げた後の、本当に起こった数多くの不思議な物語をお話しさせていただきました。

さっそく当日会に参加してくださったアタカ通商の方が、その時の様子をアップしてくださいました。

http://www.specialtycoffee.jp/topics/1949.html

ありがとうございます。

アタカ通商さんは1965年からジャマイカのブルーマウンテンを、扱ってきた珈琲の専門商社さん。
コーヒー好きにはたまらない専門的な情報がたっぷりと載ってます。
ぜひ一度、ご覧ください!

というようなわけで、これから続倉敷珈琲物語として、講演でお話しさせていただいたその後の珈琲物語をマイペースでこのブログに書いていきたいと思います。

コーヒー好きの方にはぜひとも見て欲しいと思いながら頑張って書いていきますので、どうぞよろしくお願いします。

続倉敷珈琲物語 エピローグ

「よかったら、おかわり言ってくださいね...うちは、遠慮いらないですから...」

「すいません、急にお邪魔して...ありがとうござます」

ベルビューは、シアトルダウンタウンから車で約20分ほど東へ走ったところにある美しいベッドタウン

シアトルダウンタウンを新宿副都心とすれば、ベルビューの住宅街はさながら軽井沢といったところだ


大都会からたった20分で、避暑地に迷い込める


横田さんのお宅は、そんな閑静な場所にあった

「すいません、じゃ〜おかわりお願いします」

久しぶりの日本食に遠慮も無くおかわりをお願いした

焼き魚・肉じゃが・お味噌汁そして白いご飯.....

何よりありがたい!

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「もしもし横田さんですか? タカシです。今、電話よろしいか?」

「もちろんです。それで、どうでした? 墓地はわかりましたか?」

「ありがとうございました。見つかったんです、お墓! 教えていただいた墓地にあったんです!」

「いや〜本当ですか? よかったですね! いや〜よかったよかった!
 実は、あそこしかないんじゃ〜ないかと、少々自信はあったんですが...とうとうみつけましたか...」

「はい、デジカメで写真を撮ってきました。どうしても見ていただきたいし、お礼もしたいし、今夜お時間ありますか?」

例の電話トラブルで一日中対応に追われ、一度も食事をしていないという横田さんを夜のシアトルに誘い出すことは遠慮した

そのかわり、「自宅でゆっくりとくつろぎながらでよかったら、ぜひどうぞ!」 と、お誘いを受けたのだった...

 


「いや〜、やっぱりあそこにありましたか!?」

「年代も古いし、あそこしかないよね...? って言ってたんですよ」

おなかも一杯になったころ、やさしい横田さんご夫妻の温かい言葉...

<仕事場以外でも気にかけて下さっていたんだ...きっと、いろいろと問い合わせなんかしてくれたんだろうな〜...?>

「すごく古いし、偽名で登録されていましたから、朽ち果てているのかと思ってたんですけど、とてもきれいにしてもらってて....  見てください。これがお墓です!」

 



 

「いや〜! 感動ものですね...さっそく、記事を書いちゃいましょう!いいですよね?」

どこからこのバイタリティーは出てくるんだろう?

一日中、大変な状態で、すぐにでも横になりたいはずなのに.....

これが、ジャーナリストというものなのだろうか?

食事が終わる間もなく、とても楽しそうに、私にあれこれ質問をしながら、ノートパソコンのキーを叩く横田さんだった...

 


 

こうして、シアトルでのお墓探しは幕を閉じた

いや、ある意味での幕はこうして上がったのだった...

何かって?

実は、この出会いをきっかけに、新たなる物語が始まっている

ここシアトルで次々と、新たなそして忘れられない出会いが繰り返されている

不思議な縁だ

無宗教の私だが、「きっと、鄭永慶さんが会わせてくれたに違いない!」 という周囲の言葉に、うなずいてしまう

 

 

珈琲


その歴史と文化を捜し求めて旅を続け、かれこれもう3年近く...

コーヒーに関する知識なんて、これっぽっちも持ち合わせていなかった

おかげさまで、多くの珈琲に関する知識を吸収できたように思う

でも、この旅を通じて得られた一番のものは、人とのふれあいだった


何かに向かって一生懸命だったら、きっとわかってくれる人がいる

そのことに、楽しく前向きに取り組んでいれば、同じ方向を向いている友達が必ずできる


珈琲

その深い味わいは、さらに深く

今日も新たな味わいを醸し出してくれる


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今日は4月13日。日本で最初の本格的な喫茶店「可否茶館」が開業した日。

ねらったわけではないが、ちょうど倉敷珈琲物語の最終章のエピローグを迎えた。

ちょっと不思議な気持ちです。

今日は、可否茶館の跡地(今の三洋電気東京ビル)にて、可否茶館開業123周年記念会があります。
そこで講演を依頼されていますので、これから東京に向かいます。

そして、明日から、倉敷珈琲物語の続き「続倉敷珈琲物語」を書いていこうと思います。
10年前にお墓を見つけてから、不思議な展開が続いています。

そのご縁の中で、私は命まで救われました。

感謝の気持ちを込めて、続倉敷珈琲物語を書いていこうと思います。

続倉敷珈琲物語 第59話「やっと会えましたね」

日本最初の本格的コーヒーハウスの設立者、鄭永慶先生のお墓を探しにシアトルまでやってきた

今、こうして珈琲を楽しめることに対し、先生に感謝の意を捧げるために.....

偶然が重なり、多くの人に助けられ、とうとうここまでたどり着くことができた

あと少し、あと少しでお墓が見つかる....

(鄭永慶先生の功績については、物語の第27話〜30話をご覧ください)

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ジェームズさんの車は、道をはさんで向かいにある墓地へと入っていった

こんもりと茂ったアプローチの植え込みの中に、レイクヴュー墓地の名前が見える

 



 

ゲートを抜けるといわゆる日本の墓地とは違った、美しく荘厳な光景が目に入ってきた

 


 

晴れ渡った青い空

きれいに刈り込まれた緑の芝生

まるでフェアウエーの中に、オブジェを並べたような印象だった

 

約100m弱走っただろうか.....

ジェームズさんの車が止まり、道の左手に入っていく

すぐ後ろに車を止め、後を追った

 

さわやかな風に枯葉が舞っている

どこからか小鳥のさえずりも...

 

「これじゃ〜ないのか? ありましたよ!」

ジェームズさんの声

 

<あったのか?>

いそいで彼の示すお墓へと向かう...

 



きれいに刈り込まれた芝生の中、ひっそりと少し沈んでいるようにそれは見えた...

自分でも不思議だったが、焦る気持ちとは裏腹に足取りはゆっくりと...ゆっくりと...

 


 

これか?

 


 

夕日が演出する長い木陰の陰影が美しい

 

やっと会えましたね


はじめまして、タカシです

こんなにきれいな場所で、こんなにきれいにしてもらってるなんて、安心しましたよ

風に舞う枯葉をどけようかと思いましたが、やめておきます

だって、仲良く、暖かく、包み込まれているようなんですから...

そうなんでしょう?
永慶先生! 先生の描いた珈琲の文化はたしかに日本に根付きましたよ...

先生の理想とは違ってるかもしれませんけど、でも楽しく、おいしく珈琲を楽しめる

そんな日本になりましたよ

ありがとうございました

 

こころざし半ばにして日本を離れなければならなかった口惜しさは、いかほどだったことでしょう?

日本を代表する頭脳と野心を持ちながら、時の運命のいたずらに翻弄されたのですね

 


珈琲の歴史と文化を尋ねて旅を続けてきましたが

先生の存在を、どうしても日本の珈琲好きの人たちに伝えたくて...

そして直接先生に会ってお礼が言いたくて、ここまで来てしまいました

 

やっと会えました

今、久しぶりに心が震えているのがわかります

熱いものがこみ上げて来ます

大きなエネルギーを感じます

来てよかった!

何か大きなエネルギーをもらえたような気がします

 

ありがとうございました

また、来ます...必ず来ます

それまでゆっくりと眠っていてください

 

やすらかに.....

 

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気が付くと、すっかり日は沈んでいて、既に薄暗くなっていた

どれくらいお墓の前にたたずんでいただろう?

経験したことの無い、不思議な居心地の良さの中、時間を忘れた

うまく伝えられないけど、不思議な暖かさに包まれた、そんな感じだった


こうして私のコーヒーロードの旅は終わりを告げた

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明日は4月13日 鄭永慶先生の可否茶館が開業した日。

日本では、その4月13日を喫茶店の日としている。

その可否茶館のあった場所には2008年4月13日に記念碑が建立された。
http://web01.cims.jp/moon/kahisakan/index.html

今年もその場所で(三洋電気東京ビルの社屋内の食堂をお借りして)可否茶館開業123周年記念会が14時〜16時まで開かれる。

私も出席し、この倉敷珈琲物語やシアトルの鄭永慶先生について講演を予定している。

ご興味のある方は一般参加も可能ということですのでいかがですか?(会費1000円 茶菓子付)

続倉敷珈琲物語 第59話 「名簿」

「レイク・ヴュー墓地へ行きたいんです。どうやって行けばいいか教えていただけますか?」

と、英語で言ったつもりだった


「墓地...?」


えっ? といった顔で、フロントの若いホテルマンが訊き返してきた


「そう、レイク・ヴュー墓地。知ってる?」

「う〜ん...たぶん、あそこのことだと思うけど....どうやっていくの? 車かい?」

「そう、レンタカー。でも、この辺、全然知らないから、地図を書いて欲しんだけど...」

「OK ! ちょっと待ってて...」

そういって、カウンターの下にかがみこんで何かを探してくれている

 

「今、ここにいるわけです。ここ...わかりますか?」

そういって、見せてくれたのは、観光客用のシアトルマップだった

とてもわかりやすく、初めてシアトルへ来たときはずいぶん世話になった、なじみの地図だった

 

「Yes. わかるよ」

「ホテルの横のこの道、DENNY WAYを、ず〜と北上するんです。

そのまま、<I 5>を超えて、まっすぐ走っていると、だいたいそのあたりに行けます」

  I 5とは、ハイウエーの5号線のこと... かなり大雑把な説明だ



「この地図のどのあたりに墓地はあるんですか?」

「この、ず〜と上の方、この辺です」

と、地図の一番上のあたりから、さらに20センチ程上の地図の無い机の上を、彼の指はさしていた

 

「その辺まで行って、誰かに聞けばいいよ!」

彼の最後のセリフは、ごもっともだった...

「ありがとう、行ってみるよ...」

グッドラックの声を後ろに聞きながらホテルを出、駐車場へと急いだ


ダウンタウンの北へハイウエー以外で足を伸ばすのは初めてだった

方向音痴ではない自信はあった。しかし、不安の方が大きかった。
日が暮れかけている。急がなくては...

 

I 5 を超えて、BROADWAY へぶつかって、どちらへ行こうか迷ってしまった

とりあえず、曲がりやすい右へハンドルをきり、道なりにしばらく走ってみた

 

地図の番地に近づくように、ゆっくりと走らせながら.....................

<OK!だんだん近づいてくるのがわかるぞ>

でも...<もう少しだ...> と思うと、また違った番地に出くわしてしまう

もう何度も同じところを行ったり来たりしているのがわかる...

 

よし、聞いてみよう! 歩道沿いに車を止めた


「すいません。レイク・ヴュー墓地へ行きたいんですが...道を教えていただけませんか?」


楽しそうに歩道で立ち話をしていた女性2人組みに、声をかけてみた...


「墓地?」 同じようなリアクションだった...

タカシは、住所の書いてある例のメモ紙を取り出し、向かって左のちょっとだけ小太りのやさしそうなお母さんに手渡した

 

「ああ、この住所なら、この道であってますよ!
 もう少し、このまま、まっすぐ走れば、見えてきます。絶対見逃したりしませんよ!」

そう笑顔で答えながら、メモ紙を返してくれた

「どうもありがとうございました」

<よかった、だいたいの方向はあっていたのだ。日暮れまでにもう時間が無い。急ごう...>

 

帰り道では、そこからほんのすぐそこといった印象だったが、探しながらのその道は、遠く遠く感じたのだった...

<まだまだなのかな?>

不安になってきたタカシは、念のためもう一度、尋ねてみる事にした。

 

美しい緑に両側を蔽われたその道は、散歩するには格好の場所らしく、子犬を連れた老夫婦が楽しそうに歩いていた

<あの人に聞いてみよう!>

「すいません...レイク・ヴュー墓地へ行きたいんですけど...」 もう、かなり近いはずと思い、今度は、メモ紙無しで聞いてみた

 

白髪のやさしそうなおじいさんは、タカシの言葉を聞くと、大げさに目を丸くして横のおばあさんの顔を覗き込んだ...

<なんか、変な事言ったのかな...?> 不安がよぎる...

 

向き直ったおじいさんも、おばあさんも、満面の笑みを浮かべて、声をそろえて私に言った

「ここですよ!」

「ほら、あなたの後ろ。そこがぜ〜んぶ墓地ですよ! 事務所はほら、あそこにフェンスが見えるでしょ?あ・そ・こ!」

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やっとついた。 すでに、午後4時をかなり回っていた...

「すいません! こんにちは! どなたかいらっしゃいませんか?」


きれいな事務所だった。日本の墓地のイメージとは全然違う。いわゆるオフィスだ...

 

「いらっしゃい。ブルースリーでしょ? ちょっと待ってください、今、地図を出しますから...」

私の顔を見るなり、突然そう言うと、なにやら探しに裏の事務所へと...

ブルースリー...? なんじゃそりゃ?>

 

「すいません! ある日本人のお墓を探しにきたんですけど!!」 タカシは、大きい声を出していた...

「.......えっ? ブルースリーじゃ〜ない?
すいません、ほとんどの東洋の方はブルースリーの墓参りにお見えになるもので、すっかりあなたもそうかと思ってしまいました。大変失礼しました。アシスタントマネージャーの、ジェームスです」


大柄でやさしそうな笑顔のジェームスさんが、名刺を渡しながら言い訳をした...

ここの墓地は、ブルースリーが眠ることで有名な墓地であることを、そのとき初めて知ったのだった

 

「鄭永慶という人のお墓を探しています。亡くなったのは1895年7月です。でも、西村鶴吉という名前かもしれません」

そういって、名前のスペルと年号を書いたメモを渡した




Tei Eikei or Turukichi Nishimura 1895 July 17

 

そのメモを見ると、すぐにジェームズさんはこう言った


「古いですね! かなり古い時代ですので、昔の資料を持ってきます。少々お待ちください」

 

かなり待った気がした...

やっと姿をあらわしてくれたジェームズさんの手には、大きなアルバムのような資料が...

「これが一番古い資料です。そして、手書きで複写した少し新しい資料と...」

そう言って、カウンターの上に広げてくれた。


 

「ありましたよ! ここです!」

そういって、ページを開いて見せてくれた...


「ここです!ほらっ」


広げたページの真中あたり....

古い資料にもはっきりと Nishimura T の文字が...


「あった! 年代も1895年7月! 間違いない」


<とうとう見つけた>




「お墓はありますか?」

「お墓の位置を示す一番古い資料を探しました。ほらっ、名前が確認できますね!?」

そう言って見せてくれた資料はぼろぼろで、やっと名前が確認できるほどのものだった...


たしかに当時、この3の7の区画に、墓石があったことの証明だという...

「この年代のお墓は、平らな石の墓石で、古いものの中には残っていないものもありますから...まあ、行って見ましょう!」

そう言って彼は私に墓地の地図を渡してくれた


「だいたいこのあたり、そう、この辺は番地もついていない場所なんです...
場所を示す古い資料に、名前がありましたので、あるとは思いますが...」

一目見て、如何に広いかがうかがえる墓地の地図であった

その地図の中央あたりに黄色いマーカーで印をつけて、説明してくれた

<いよいよだ! 見つかる可能性は高い!>

期待に胸を膨らませ、ジェームズさんの車の後について、タカシは車を墓地の敷地内へと進めた.......

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とうとう、ここまで来てしまった

執念にも似た想いで、辿ってきた

ジェームスの車の後ろを見ながら、一人感慨にふけるタカシであった

夕日の中に立つジェームスさんの黒い影が、手招きでタカシを呼んでいる

あったのか?

 

続倉敷珈琲物語 第58話「出会い...」

「Hello....」

以外にも電話から聞こえてきたのは女性の声だった。

「あっ、もしもし」 ちょっと驚きながら、思わず日本語が出てしまった...

「あ〜もしもし」 と、相手も日本語。

 よかった、日本語が通じる。

「もしもし、あの〜横田さんのお宅でしょうか?
 日本から今ホテルについたばかりなんですが、この電話番号がメッセージに残されていまして...。あっ、すいません、タカシといいます」

「はいはい、主人から聞いてますよ、ちょっと待っててくださいね、折り返し電話させますから。」

どうやら、確実に連絡が取れる方法として、奥様に協力を依頼されていたようだ

 

5分と経たないうちに、ホテルの電話が鳴った。

「もしもし、タカシさんですね、横田です。どうも、はじめまして...」

初めての電話だったがメールで少しやり取りしていたせいかあまり緊張せずに話ができた。
ありがたいことに、わざわざこれからホテルまで来て下さると言うのだった。

ご好意に甘えさせていただくことにし、ホテルの部屋で待つことに。

 

それから小一時間、部屋の呼び鈴が来客を継げた。

歴史を感じさせる大きな木製のドアをゆっくりと開けると、そこには二人の男性。

「どうも、どうも、わざわざお越しいただいて申し訳ありません。どうぞ、お入りください。本当にありがとうございます」

部屋の中に入ってもらい、窓際に腰掛を二つ用意し、私はベッドの端に腰掛けた。

「はじめましてタカシと申します。このたびは、変なお願いをしましてすいません。」

その二人の男性は北米報知の編集長と横田さんだった。

 

「珈琲物語を読ませていただきました。良くできていると思います。
 今、スターバックスをはじめとしてシアトル発信の商品がずいぶん日本で脚光を浴びてますよね!?

 ところが、日本の珈琲の歴史上重要な人物が実はここシアトルと深い関わりがあったんだ!...というのは、
 なかなか面白いと感じましてね。メールにも書きましたが、記事として扱わせてもらおうということになったんですよ!
 かまわないですよね......?」

お世辞でも、プロのジャーナリストから良くできていたと言われ、めっちゃうれしいタカシだった。

「もちろんです! お墓探しの広告をぜひお願いしようとシアトルまできたのですから。記事にしていただけるなんて夢のようです」

「実は、もうできてまして。今週号が明後日配布されます。こんな感じにしたんですけど....」

そういって、刷り上ったばかりの新聞を渡された。

 

驚いたことに、そこには、見開き一面に大きく取り上げられたお墓探しの記事が載っていた。



 

さすがに良くまとまっている。<やっぱりプロは違うな〜>としきりに感心、感心!

本当に、私がお願いしたいことが十分に伝わっていた。

<ひょっとしたら、本当に見つかるかも...?> 胸の高まりを感じながらお礼を言った...

「ありがとうございます。感激です。こんなに大きく取り上げていただけるなんて。」

「一週間ほど様子を見ましょう。ご予定は?」

ちょうど8日後のフライト予定だった。

「帰国予定日の一日前、7日後に連絡させてください。それでいいでしょうか?」


こうして、一週間の間、待つことになった。

 

そうは言っても、じっとしていられない。 自分なりに動いてみることにした。

といっても、何ができるというわけでもなく、知り合いの日本人のお宅を訪ね、なにかヒントは無いかと聞いて回ったのだった。
しかし、思っていたとおり、何のヒントも見つからず、あっという間に一週間が過ぎていった。

その日タカシは、シアトルの隣町、アナコルテスという小さな町にいた。

一本の道沿いに、おしゃれなアンティークショップが軒を連ねる、こじんまりしたかわいい町だ。

お店の壁にいろんな壁画が書いてあり、散歩するにも飽きさせない。



不思議と落ち着くこの町が気に入って、安モーテルを拠点としていたのだった。

 

チェックアウトしてから気が付いた。

<ホテルから電話すればよかった!>

まあいいか...と、エンジンをかけ、ガソリンを給油するため近くのガソリンスタンドへ...

スタンドの公衆電話から北米報知の電話番号をダイヤルして気が付いた。

<ここは、市内じゃ〜ない!>

電話の向こうで、コンピューターによるオペレーターの早口の声が聞こえる。

「?????????」

早すぎて聞き取れない。<何?、いくら払えって?>

どうやら、市外なので、最低料金を先に投入しろと言っているようだ。しかし、小銭が無い。

ガソリンスタンドでくずしてもらう。

受話器を上げて小銭を入れる、と..「ツーツーツー」

途中なのに切れてしまった。なぜ? もう一度。

「ツーツーツー」 

どうなってんだ! わからなかったので、ガソリンスタンドのおにいちゃんに聞いてみた。

 

どうやら、入れるのが遅すぎるらしい。他に方法は無いのかと訪ねると、それしかないと言う。

しょうがない...せえのーで、いっせいに小銭を放り込む。 今度はうまくいった。  が......

「ツーツーツー」 いや、今度は「ツーーーーーー」か?

わからない。受話器を戻す。

「えっ?」 お金が返ってこない。「うっそ〜、そんなばかな!」

 

今朝は気持ちよく晴れ渡り、結果を聞くには上天気と気分を良くして朝早くからチェックアウトしたのだった。

せっかくの気分が台無しになる。ここはぐっと我慢して、もう一度両替してもらう。

どうしても、気になったから、おにいちゃんに聞いてみた。

「どうしてお金が返ってこないの?」

「それは、僕のせいじゃないよ!」

そうそう、ここはアメリカでした。自己責任!自己責任!

 

今度は横田さんの携帯電話にかけてみた。

「よくつながりましたね〜。よかったよかった。
 実は、会社の電話がダウンして、1回線しか使えなくなってるんです。新聞社の電話がたった1回線なんてとんでもないでしょ!
 しょうがないから携帯で仕事をしてたので、ず〜と話中じゃ〜なかったですか?どうもすいません。」

なんだ、そういうことだったのか。

とすれば、一発で携帯につながった僕はラッキーじゃん! ちょっと期待が持ち上がってきた。

「それで、何か情報は入りましたか?」

「残念ながら今のところ何も入ってません。
 いや〜そんな話があったのかって、反響はあったんですけどね〜....お墓のことになっるとさっぱりです。」

 

<う〜ん残念!>

「まあ、今日一日待ってみましょう。
 それに、僕なりにいろいろと調べたこともありますから、もう一度夕方に連絡を取り合いましょう! 今日はダウンタウンですか?」

 

シアトルダウンタウンに入り、北はずれのモーテル「Best Western」にチェックインした。

3時ごろ、もう一度電話してみた。 今度は不思議と一発でつながった。

「すいません、やはり情報は入ってないみたいです。

でも、私なりに、それなりに古い墓地を調べたり、日系のお年よりの方々から情報を取ったりして、ここじゃ〜ないかな?っていう墓地の目処をつけていたんです。

本当は一緒に行かなっくちゃ〜いけないんですけど、トラブルがこんな状況なもので、今日はどうしても抜けられなくなっちゃいました。

ほんと申し訳ない。住所を言いますから、何とか一人で行けますか?」

 

大変な状況の中でこんなにしていただいて、申し訳ないのはこちらの方だった。

なんとしてでも見つけたい気持ちは熱いままだ。

「もちろんです。一人で探して見ますので、その墓地を教えてください。」

受話器を左の肩とあごにはさんで、ホテルのメモに走り書きした.......


スペルが違っているかも?

たったこれだけの情報で、一人で行けるのだろうか?

悩んでる暇は無かった。

<なんとかなるさ!よし、行こう!>

1階のフロントでメモ紙を見せ、地図を書いてもらうことにした...

 

「Do you know Lake View Cemetery?」

続倉敷珈琲物語 第57話「シアトルへの想い...」

「それにしても、いい写真が手に入ったねぇー」

喫茶ナポリの写真を手にしながら、ルモンドおじさんは続けた...

「とりあえず、こうして倉敷の珈琲の歴史もわかったことだし、長かった珈琲ロードの旅もこれにて終了かい?」

 

「本当はもう少し、詳しく調べたかったんですけど、今のところ、これで精一杯っていうのが本音かな〜

ひょっとすると、もっと古い喫茶店があったかもしれないし...?」 と、タカシ.....

 

「まあ、そのときは、また追加すりゃ〜ええが............まっ、これにて、一件落着だな!」

「..............................」

「どうした?」

「ず〜と前から考えてたんですけど、この物語の最後は、どうしてもこうしたいっ!......ていう構想があるんですよ...!」

「どんな?」
椅子の奥まで腰掛けなおして、半年以上も暖めていた物語の結末を、ゆっくりとタカシは話し始めた.......
「鄭永慶って、覚えてます...?」


「ああ、日本で最初の本格的な喫茶店を開いた偉い人じゃろ?...たしか、東京の可否茶館じゃったな?」

「そう! すごい! 良く覚えてますね...さすが!」

「そりゃ〜何回も聞かされりゃ〜誰でも覚えるじゃろ〜」

「そりゃ〜ルモンドおじさんはそうかもしれないけど、ほとんどの人はまだ知らないと思うんだ?」

「まあ、そうじゃろうな〜 教科書にのってるわけでもねえしなぁ〜...?」

 

「でもね、こうしておいしいコーヒーを飲めるのは、鄭永慶さんのおかげでもあると思うんだ...!そんな鄭永慶さんが、身寄りの無いシアトルへ密航して、わずか37歳で亡くなってるでしょ?」

「そうじゃったなあ....」

「寂しかったと思うんだ..! たった一人で.....異国の地で....。そこで、そんな鄭永慶さんに、おいしい珈琲をありがとう!って御礼を言いに、お墓参りをしようと思ってるんだ!!

「そりゃ〜ええことじゃけど、お墓の場所? わかっとん?」

「全然?」

「全然って、どうするつもり?」

「これから調べるの! 頑張って調べて、それでもわかんなかったら、シアトルに行ってでも調べるのっ!」

 

そんな訳で、タカシのお墓探しは始まったのでした。

まず、「日本最初の珈琲店(可否茶館の歴史)」いなほ書房の著者、星田宏司先生のホームページからメールで問い合わせをしてみた。

おそらく、日本で一番鄭永慶のことに詳しい方だと思ったのだ。

しかし、メールがうまく届かないのか、それとも不明なのか、返信メールは届かなかった。

 

次に、知り合いのコーヒー屋さんにお願いして、バッハグループで有名な日本の珈琲第一人者の田口先生に問い合わせていただいた。

しかし、やはり、お墓に関しての情報は何も無かった。

 

鄭永慶が亡くなったのは、1895年。 今から100年以上も昔のこと.....やはり、無理なのか?

 

日本では無理と判断したタカシは、シアトルへと目を向けた

在シアトル日本国総領事館のホームページを見つけた  http://www.embjapan.org/seattle/index_j.html

英語に自信のないタカシは、だめでもともと....という想いで、メールを打った

 

ありがたいことに、今度は、すぐに返事がもらえた

e-mailありがとうございました。
あいにく当館にはお探しの情報がありません。

鄭さんがシアトルのどこに住んでいたのか、といった情報はお持ちでしょうか。
シアトルのコミュニティ紙に広告を出してみるのも1つの方法かもしれません。
いかがでしょうか。

領事館の南山さんという方からのメールだった。

突然の、わがままな問い合わせに、非常に迅速に対応していただき、恐縮してしまった。

結果としては残念な情報だったが、そう簡単にわかるはずも無く、コミュニティー紙への広告というアイデアをいただけたことに感謝した。


早速、お礼と一緒に、コミュニティー紙への投稿に関して、再び問い合わせてみた....

すると...

ご連絡が遅くなりましたが、当地の日系紙「北米報知」に横田さんという方がいて、本件に対し興味を持っていらっしゃいます。ご連絡をしてみてはいかがでしょうか。

広告の場合でもたとえば20ドルから30ドルでもかまわないとのことです。
依頼内容を文字にして横田さん宛に送っていただきたいとのことですので、至急ご手配いただければ幸いです。 南山

このような返事が返ってきた。

ありがたい。日本人が多いシアトルのコミュニティー紙に、お墓探しの広告をわずかなコストで掲載していただくことができるのだ。

さっそく、横田さんに連絡をとった。

今まで書いてきた物語を読んでいただき、なんとしてでも捜し出したい気持ちを一生懸命メールで伝えた.....

こうして会ったことも無い方々を巻き込んでしまい、いても立ってもいられない気持ちが募り、とにかくお墓探しにシアトルへ出かけることにした。

 

出国直前、私の想いは、横田さんから届いたこんなメールで報われた



はじめまして北米報知の横田と申します。
本紙で先ず記事として紹介させていただきます。

広告に関しては後日打ち合わせいたしましょう。




広告としてではなく、記事として取り上げていただけるというのだ!

自分でも信じられない展開に興奮しながら、気持ちはもうシアトル....手荷物の準備もルンルンだった。

メールで最初の滞在先がダウンタウンクレアモントホテルであることだけを連絡し、フライトへ向かったタカシだった...

わかりやすいようにと、最初の日の滞在先に選んだクレアモントホテルは、シアトルの町並みにしっくりと来る落ち着いた風情のホテル...


チェックインすると、そこには「電話下さい」という、横田さんからのメッセージが入っていた...

部屋に入るなりタカシは、荷物の整理もそこそこに、あわただしく受話器に手をかけた

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この第57話に出てくる「日本最初の珈琲店(可否茶館の歴史)」の著者である「いなほ書房」の星田宏司先生は、この物語を書いた当時(10年前)にはまだパソコンにはお詳しくなくて、私のメールに気が付いていらっしゃらなかったそうだ。

どうしてそう言えるかというと、直接星田先生から聞いたからです。

そうです、この物語をきっかけに、星田先生との不思議なご縁をいただき、新たな物語が作られていったのです。

この続編は、そうした倉敷珈琲物語を通じて出会えた方々と織りなす珈琲物語の続きを書いて行こうと書き始めました。

不思議な不思議な物語に引き続きお付き合いください